第3回ローマ包囲とは? わかりやすく解説

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第3回ローマ包囲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 06:58 UTC 版)

アラリック1世」の記事における「第3回ローマ包囲」の解説

アラリック役に立たない傀儡皇帝廃立して、ホノリウス帝との再交渉挑んだホノリウス帝からアラリックに対してラヴェンナ城外から12キロメートル離れた場所での直接会談提示された。アラリック約束通り会談赴いたが、長年アラリック敵対してきたゴート族族長サルス率いローマ小部隊からの奇襲攻撃受けたアラリック攻撃受けたが、幸運に生き延びたアラリックローマ卑劣な裏切り失望してホノリウス帝との交渉断念し、敵の策謀の裏をかいてローマへ向かって南進開始した。こうしてローマとの攻防史に決定打となる包囲戦、第3回ローマ包囲が展開された。4西ゴート軍に包囲されローマ糧食尽き飢餓苦しんだローマ止むを得ず特使派遣して和平交渉し、巨額賠償金を払うことで包囲を解くことを約束させたが、皇帝了承得られず、ラヴェンナ宮廷協定違反行為から失敗した。そこでアラリックは、ローマそのものから富を強奪することに方針転換し市内での市街戦劫略決意する410年8月24日西ゴート軍勢サラリア門から城内雪崩れ込み3日間にわたってローマ略奪した同時代教会側の史料によれば西ゴート寛大な処置が驚くほど多く記録されている。キリスト教の教会略奪の難を逃れた逃げてきた多く群衆異教信奉者キリスト教徒保護受けた個人邸宅金銀食器聖ペテロのものであるといって奪わなかった、狼藉働いたゴートに対してローマ美し夫人人間良心説いた、といった話が伝わっている。しかし、こうした話は例外的な事例であってローマどれほど防備固めた都市であったとしても、人々都市包囲戦末路待ち受ける破滅恐怖から完全に免れていたわけではないことを示唆している。 このときの略奪では、ローマ象徴する多く公共施設略奪遭いアウグストゥス廟ハドリアヌス廟など歴代皇帝墓所暴かれ遺灰壺も破壊された。ラテラノ宮殿からは、コンスタンティヌス1世寄贈した銀製聖体容器奪われた。動かすことのできる価値あるもの市内全域から持ち去られたが、建物自体大きく破壊されたのはフォルム・ロマヌム元老院議場付近サラリア門付近に限定されていた。サラリア門近くサッルスティウス庭園破壊され二度と再建されることはなかった。フォルム・ロマヌムバシリカ・アエミリアおよびバシリカ・ユリアもこの時焼け落ちた破壊逃れたのは教会関係施設けだった住民被害大きく皇帝の妹ガッラ・プラキディア含め多く捕虜となり、その多く奴隷として売り飛ばされたり、強姦虐殺された。身代金払って救われたのはごくわずかだった。難を逃れた住民遠くアフリカ属州落ち延びた。 「ローマ略奪 (410年)」も参照

※この「第3回ローマ包囲」の解説は、「アラリック1世」の解説の一部です。
「第3回ローマ包囲」を含む「アラリック1世」の記事については、「アラリック1世」の概要を参照ください。

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