第3回ローマ包囲
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アラリックは役に立たない傀儡皇帝を廃立して、ホノリウス帝との再交渉に挑んだ。ホノリウス帝からアラリックに対してラヴェンナの城外から12キロメートル離れた場所での直接会談が提示された。アラリックは約束通り会談に赴いたが、長年アラリックと敵対してきたゴート族の族長サルス率いるローマの小部隊からの奇襲攻撃を受けた。アラリックは攻撃を受けたが、幸運にも生き延びた。アラリックはローマの卑劣な裏切りに失望して、ホノリウス帝との交渉を断念し、敵の策謀の裏をかいてローマへ向かって南進を開始した。こうしてローマとの攻防史に決定打となる包囲戦、第3回ローマ包囲が展開された。4万の西ゴート軍に包囲されたローマは糧食が尽き、飢餓に苦しんだ。ローマは止むを得ず特使を派遣して和平交渉し、巨額の賠償金を払うことで包囲を解くことを約束させたが、皇帝の了承を得られず、ラヴェンナの宮廷の協定違反行為から失敗した。そこでアラリックは、ローマそのものから富を強奪することに方針を転換し、市内での市街戦と劫略を決意する。410年8月24日、西ゴートの軍勢はサラリア門から城内に雪崩れ込み、3日間にわたってローマを略奪した。 同時代の教会側の史料によれば、西ゴートの寛大な処置が驚くほど多く記録されている。キリスト教の教会は略奪の難を逃れた、逃げてきた多くの群衆は異教の信奉者もキリスト教徒も保護を受けた、個人の邸宅の金銀の食器は聖ペテロのものであるといって奪わなかった、狼藉を働いたゴート兵に対してローマの美しい夫人が人間の良心を説いた、といった話が伝わっている。しかし、こうした話は例外的な事例であって、ローマがどれほどに防備を固めた都市であったとしても、人々は都市包囲戦の末路に待ち受ける破滅の恐怖から完全に免れていたわけではないことを示唆している。 このときの略奪では、ローマを象徴する多くの公共施設が略奪に遭い、アウグストゥス廟やハドリアヌス廟など歴代皇帝の墓所も暴かれ、遺灰壺も破壊された。ラテラノ宮殿からは、コンスタンティヌス1世が寄贈した銀製の聖体容器が奪われた。動かすことのできる価値あるものは市内全域から持ち去られたが、建物自体が大きく破壊されたのはフォルム・ロマヌムの元老院議場付近とサラリア門付近に限定されていた。サラリア門近くのサッルスティウス庭園は破壊され、二度と再建されることはなかった。フォルム・ロマヌムのバシリカ・アエミリアおよびバシリカ・ユリアもこの時焼け落ちた。破壊を逃れたのは教会関係の施設だけだった。住民の被害も大きく、皇帝の妹ガッラ・プラキディアを含め多くが捕虜となり、その多くは奴隷として売り飛ばされたり、強姦・虐殺された。身代金を払って救われたのはごくわずかだった。難を逃れた住民は遠くアフリカ属州に落ち延びた。 「ローマ略奪 (410年)」も参照
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