第1回ローマ包囲
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407年までに、東西ローマ帝国における双方の宮廷間の確執は、内乱につながりかねないほど厳しいものとなっていた。スティリコはアラリックの部隊に対して、イリュリクム地方での生活のためホノリウス帝の要求を実行するように要求する。要請に応えてアラリックは、西ローマ帝国に有利に事を運ぼうと、エピルスに侵攻した。408年5月にアルカディウス帝が死んだとき、東ローマとの戦争を停止するため、戦費あるいは軍資金をいくらか支払うよう脅しをかけた。アラリックは報酬として黄金4000ポンドを提示した。スティリコの強い圧力のもと、ローマ元老院は支払いを約束することに合意した。しかし3か月後、スティリコとその幕僚たちはホノリウス帝の命により不条理にも殺害された。 「スティリコ」も参照 スティリコ殺害に続いて、イタリア各地に反ゲルマン的な社会不安が蔓延し、ゴート族、ヴァンダル族などフォエデラティの多くの妻子が虐殺された。その結果、スティリコの部下を含め生き残った3万人の人々がアラリックの幕営に落ち延び、卑劣なローマ帝国に対する戦いの指導をアラリックに懇願した。もはやスティリコのようにローマの僕となってローマを防衛する将軍となることはできなかった。408年9月、アラリックは人々を連れてジュリア・アルプス山脈を越境し、ローマの城壁、そして要塞に挑むようになった。 しかし、このときは流血はなかった。アラリックは兵糧攻めを使ったのである。和平を求めて派遣された元老院の使節を脅しつけ、ローマの絶望した市民がなすべきことに示唆を与えた。アラリックは笑いながら「まぐさが束になればますます簡単に狩り獲れる」と名高い返答をした。いくども交渉を重ねた結果、飢餓に苦しむローマ市民は5千ポンドの黄金と3万ポンドの銀、4千枚の絹の外套、3千枚の染物、3千ポンドの紙を差し出すことに合意した。アラリックは解放された4万人のゴート人奴隷を連れて行った。同族の復讐を果たして、アラリックの最初のローマ包囲は終わった。
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