第1回ローマ包囲とは? わかりやすく解説

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第1回ローマ包囲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 06:58 UTC 版)

アラリック1世」の記事における「第1回ローマ包囲」の解説

407年までに、東西ローマ帝国における双方宮廷間の確執は、内乱つながりかねないほど厳しいものとなっていた。スティリコアラリック部隊に対してイリュリクム地方での生活のためホノリウス帝の要求実行するように要求する要請応えてアラリックは、西ローマ帝国有利に事を運ぼうと、エピルス侵攻した408年5月アルカディウス帝が死んだとき、東ローマとの戦争停止するため、戦費あるいは軍資金いくらか支払うよう脅しをかけた。アラリック報酬として黄金4000ポンド提示したスティリコの強い圧力のもと、ローマ元老院支払い約束することに合意した。しかし3か月後、スティリコとその幕僚たちはホノリウス帝の命により不条理に殺害された。 「スティリコ」も参照 スティリコ殺害続いてイタリア各地に反ゲルマン的な社会不安蔓延しゴート族ヴァンダル族などフォエデラティ多く妻子虐殺された。その結果スティリコ部下含め生き残った3万人人々アラリック幕営落ち延び卑劣なローマ帝国対す戦い指導アラリック懇願した。もはやスティリコのようにローマの僕となってローマ防衛する将軍となることはできなかった。408年9月アラリック人々連れてジュリア・アルプス山脈越境し、ローマの城壁、そして要塞挑むようになった。 しかし、このときは流血はなかった。アラリック兵糧攻め使ったのである和平求めて派遣され元老院使節脅しつけ、ローマ絶望した市民がなすべきことに示唆与えたアラリック笑いながら「まぐさが束になればますます簡単に狩り獲れる」と名高い返答をした。いくども交渉重ねた結果飢餓苦しローマ市民は5千ポンド黄金と3ポンドの銀、4千枚の絹の外套、3千枚染物、3千ポンドの紙を差し出すことに合意したアラリック解放された4万人ゴート人奴隷連れて行った同族復讐果たして、アラリック最初ローマ包囲終わった

※この「第1回ローマ包囲」の解説は、「アラリック1世」の解説の一部です。
「第1回ローマ包囲」を含む「アラリック1世」の記事については、「アラリック1世」の概要を参照ください。

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