アラリックの死とその葬儀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 06:58 UTC 版)
「アラリック1世」の記事における「アラリックの死とその葬儀」の解説
ローマ略奪の後、アラリックはカラブリアへと南下していった。アラリックはアフリカ属州をイタリアを掌中に収めるための要石としてみなし、かの土地を征服しようとした。しかし、嵐がアラリックの艦隊を襲い、船舶もろとも多くの兵士を奪い取った。まもなくアラリックは、恐らくは熱病と思われる病に倒れ、コゼンツァに没した。アラリックの軍勢は、彼らの王を讃えて特別な墓を築いて埋葬した。その埋葬地は、ブゼント川とクラーティ川の合流点であったと伝えられている。ブゼント川の水を迂回させ、アラリックを征服地から集めた財宝のすべてとともに納めるのに十分な大きさの墓穴を掘る工事には、多くの奴隷が動員された。墓が完成すると、川の水は本来の流路に戻され、墓は水底に眠ることとなった。そして、墓の場所の秘密を守るために、奴隷たちはみな殺害されたという。 アラリックの遺志は、義理の弟であり法的相続人のアタウルフに引き継がれ、ゴート族の軍団の指令権が与えられた。アタウルフは3年後にホノリウス帝の妹ガッラ・プラキディアと結婚した。
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