アメリカ合衆国の介入と支配
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 19:16 UTC 版)
「ボホール島」の記事における「アメリカ合衆国の介入と支配」の解説
米西戦争でアメリカ合衆国がスペインを破った結果、アメリカがスペインからフィリピン諸島を購入した。しかし、フィリピン独立革命によりエミリオ・アギナルドが成立させた独立政府はアメリカの承認を得られないままフィリピン統治を開始し、ボホールにはゴビエルノ・デ・カントンが知事に着任した。 続く米比戦争の間、ヘンリー・ヘイル指揮下のアメリカ軍はタグビラランに上陸し、島を占拠した。彼はペドロ・サムソンという地元民を島の警察戦力編成のために雇用した。しかしサムソンは部隊と武装を島の内陸に運び去り、反乱を開始した。 最初の戦闘で虐殺に近い敗北を喫し、サムソンはゲリラ戦術に転向して島の内陸部に勢力を維持した。その間、ヘイルの部隊は島の中心タグビラランと島の外縁部を支配した。1901年1月、戦闘は小康状態になった。同年5月、アメリカ兵が女性に暴行しようとして彼女の婚約者に殺される事件が発生した。3月5日にその兵士の指揮官であったアンドリュー・S・ローワン大尉は報復のためにハグナ(Jagna)の町を焼き払った(ロノイの戦い(英語版))。ボホールの住民は怒り、暴動に発展した。 最初、ローワン大尉はこの報復行為のために停職処分になった。しかし結局、部隊内部でもこの行為に対する支持が高まった。米軍は次々に反乱の協力者とされる村を焼き、家畜を殺し目立つ民間人たちを水責めで拷問した。戦闘の終わりまでに、アメリカ軍部隊は16から20の村を焼いた。エドウィン・F・グレン少佐は拷問を認可した罪で後に軍法会議にかけられた。 サムソンとその部下は1901年12月23日に、大赦を保障され忠誠を誓った後、降伏した。戦争はこの時おおむね終了したが、1ヵ月後サムソンは再武装し、地方顧問のJ・R・ヘッグを殺害する命令を出した。これは感情をあおりほとんど戦争再開に近いところまで至ったが、戦闘は起こらず最後のアメリカ軍部隊は1902年2月に島を去った。 1917年3月10日、アメリカの植民地政権はフィリピンのほとんどの州の創設につながる決議を出し、ボホールは独立した州となった。
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