アテネ五輪後〜北京五輪とは? わかりやすく解説

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アテネ五輪後〜北京五輪

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 03:40 UTC 版)

渋井陽子」の記事における「アテネ五輪後〜北京五輪」の解説

2004年9月ベルリンマラソンでは、当時シドニーオリンピック金メダリスト高橋尚子持っていた日本記録を5秒更新する、2時間1941秒(当時世界歴代4位)をマークして優勝獲得賞金7ユーロ・約950万円)、雪辱果たしたその後、翌2005年9月ベルリンマラソンで、アテネ五輪金メダリスト野口みずき日本記録塗り替えられる)。この記録は、2013年8月時点女子マラソン日本歴代2位世界歴代12位)である。 2005年3月第26回名古屋国際女子マラソンでは、レース直前風邪を引き体調不良による影響で、35kmの手前で優勝争いから脱落結果7位に終わり世界陸上ヘルシンキ大会マラソン代表入り逃した。翌2006年3月第27回名古屋国際女子マラソンでは、レース序盤から独走する終盤ペースダウンゴールまで残り1km付近弘山晴美逆転され惜しくも2位となる。 2007年1月行われた第26回大阪国際女子マラソンには、ほぼ同じコース行われる世界陸上大阪大会女子マラソン代表を目指し出場序盤から野口みずきの持つ大会新記録目指し優勝した原裕美子と共にハイペース飛ばしたが、中盤故障発生して29Km付近で原に突き放される。その後34km過ぎでは突然立ち停まってしまい、両足屈伸する場面有って失速結果10位に終わり又も世界陸上出場断たれた。 2008年8月開催される北京オリンピック女子マラソン国内代表選考会だった、2007年11月第29回東京国際女子マラソン出場。現日本記録保持者の野口みずきとの一騎討ち予想されたが、後半30km手前で再び失速その後尾崎朱美大南博美らにも抜かれ結局7位と敗北前回アテネ五輪続いて北京五輪女子マラソン代表を逃した。 しかし2008年4月27日兵庫リレーカーニバル女子10000mでは2位入り五輪参加標準記録Aを突破する31分1973の好タイムマーク。そして同年6月27日日本陸上選手権女子10000mでは、ゴール直前まで2位赤羽有紀子3位福士加代子らとデッドヒートを展開、残り100m過ぎて渋井先頭に立ち、31分1507大会新記録日本選手権初優勝果たした。これによって、渋井北京五輪代表が内定となる(6月29日女子5000mにも出場したが4位留まりだった)。その後6月30日日本陸連理事会において、念願であった初のオリンピックへは、長距離トラック種目10000m)の代表として正式に選出となった北京オリンピック女子10000m本番レース2008年8月15日行われたが、序盤からの超高速ペースについていけず、終盤周回遅れとなり17位に終わった(ゴールタイムは31分3113)。

※この「アテネ五輪後〜北京五輪」の解説は、「渋井陽子」の解説の一部です。
「アテネ五輪後〜北京五輪」を含む「渋井陽子」の記事については、「渋井陽子」の概要を参照ください。

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