アテネ劇場の時代
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「ルイ・ジューヴェ」の記事における「アテネ劇場の時代」の解説
1934年(46歳)から、1951年(63歳)の没まで。 アテネ劇場(Théâtre de l'Athénée)は、パリ第9区、ガルニエのオペラ座の西200メートルにある。ジューヴェは1934年、コメディ・デ・シャンゼリゼとの契約切れを機に、そこへ移った。 1934年(46歳)、かって入学できなかったフランス国立高等演劇学校 (コンセルヴァトワール)の教授に迎えられた。 1936年、パリの国立劇場、コメディ・フランセーズ総支配人就任を要請されて辞退したが、ジャック・コポーやカルテルの仲間らと、同劇場の演出には加わった。レジオン・ドヌール勲章四等を受けた。 1939年9月の第二次世界大戦勃発により、多くの座員が動員され、演劇活動が困難になった。翌年6月フランスが降伏した。ナチ占領下のパリでは公演不能とさとり、非占領地域やスイスを巡演したのち、1941年6月、一座を率いてリオ・デ・ジャネイロへ渡った。中南米での公演は15ヶ国、376回、4年半に及んだが、その間、装置の被災消失、団員の分裂脱退などもあり、破産寸前に追いこまれた。 1944年(56歳)8月、パリ解放。再開初便に乗船し、1945年2月、パリに帰った。シャルル・ド・ゴール首相からコメディ・フランセーズ総支配人就任を要請されたが固辞。アテネ劇場を借り戻して劇団を再編し、12月、ジャン・ジロドゥの遺作の初演で、パリに復活した。ド・ゴールも観劇した。 1947年、コンセルヴァトワールの教授に、再び、迎えられた。 1948年、フランス政府の依頼に応じ、エジプトとヨーロッパ諸国へ巡演した。1950年にもヨーロッパとアフリカへ巡演した。帰国後、レジオン・ドヌール勲章三等を受けた。 1951年(63歳)、カナダ、アメリカへ巡演した。帰国して、アテネ劇場で稽古した夕に倒れ、2日後の8月16日に楽屋で没した。4日後、サンシュルピス教会で葬儀を執り行った。故人が世に出たヴィユ・コロンビエ劇場の目と鼻である。墓はモンマルトル墓地の南域にある。 大演出家のジューヴェは、映画では監督に従順な俳優だった。ジュリアン・デュヴィヴィエは、『映画が好きでなかった彼を、映画は尊敬した』と追悼した。 アテネ劇場は、アテネ・ルイ・ジューヴェ劇場(Théâtre de l'Athénée-Louis-Jouvet)となった。近くの広場は『オペラ=ルイ・ジューヴェ公園』(Sq. de l'Opera Louis Jouvet)である。
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