アテネ五輪まで
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大学卒業後、竹本監督の順天堂大学時代の先輩の鈴木秀夫が監督を務める三井海上(当時)へ入社。入社3か月後の1999年7月、札幌国際ハーフマラソンで6位に入り、同年10月の世界ハーフマラソン選手権(イタリア・パレルモ)日本女子代表に選出される。その世界ハーフの本番レースでも快走をみせ、1時間9分36秒で6位に入賞した(日本女子トップは2位の野口みずき)。 社会人初のマラソン出走となった2000年3月の名古屋国際女子マラソン大会では、高橋尚子(優勝して2000年シドニーオリンピック代表選出)の22Km過ぎからのスパートにはついていけず、2分以上の大差をつけられたが、2位に入って2時間24分台の好記録をマークした(当時女子マラソン日本歴代4位)。 同年11月の東京国際女子マラソンでも、優勝したジョイス・チェプチュンバ(シドニー五輪銅メダリスト)に27.5Km地点から引き離されて2位となるが、世界陸上選手権女子マラソン代表の内定条件を満たし、世界陸上代表に初めて選出された。2001年8月の世界陸上エドモントン大会では、優勝したリディア・シモンの残り1kmのラストスパートには対応できず、わずか5秒及ばなかったが2位でゴール、銀メダルを獲得した。 2002年4月のロンドンマラソンでは、4位ながらも2時間22分台のタイムでゴール。マラソンの自己最高記録を更新、当時日本歴代3位の好記録をマークした(優勝は当時初マラソン世界最高記録をマークしたポーラ・ラドクリフ)。 その後は足の故障続きで走れない日々が続いたが、アテネオリンピック最終選考レースの2004年3月の名古屋国際女子マラソンで、約2年ぶりにフルマラソンに出走した。後半の30km過ぎ、田中(現姓・大島)めぐみが土佐を引き離し独走したが失速。終盤37km付近で土佐が逆転し、アテネ五輪女子マラソン選考会のゴールタイムでは最速の2時間23分台で優勝を果たした。土佐の優勝により、野口みずき(内定済み)・坂本直子・高橋尚子の3名で決まりかけていたアテネ五輪女子マラソン代表選考は紛糾。代表に選出されたのは野口・土佐・坂本の三人(補欠は千葉真子)で、選考大会で優勝出来ずタイムもレース内容も悪かったシドニー五輪金メダリストの高橋尚子が、アテネ五輪代表から落選となった。しかし、この日本陸上競技連盟の下した決断は物議を醸した。 8月のアテネ五輪女子マラソンでは、優勝した野口みずきの中盤からのロングスパートについていけず、メダル獲得は逃したものの、5位入賞でゴールした(坂本直子も7位入賞、日本女子代表は3人ともに8位以内の入賞を果たした)。
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