アイヌ民族活動家として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/03 09:47 UTC 版)
小川は社団法人化当初の北海道アイヌ協会で常務理事を務めるなど、その活動に主導的な役割を果たした。1946年には宮内省新冠御料牧場を小作農家へ解放するよう働きかけ、その実現後は最も肥沃な姉去(あねさる)の土地へのアイヌ小作人の優先的移入を、アイヌ協会の代表者として主張した。姉去は御料牧場造営に当たってアイヌの先住者が小作農として強制移住させられた場所であり、さらに彼らは1916年の牧場拡張に際して上貫別へ再び強制移転させられた経緯があった。小川は農林省、宮内省および面会を求めた昭和天皇代理の高松宮宣仁親王にアイヌの優先権を訴え、最終的に姉去はアイヌ協会派の小作農、元御料牧場従業員で組織された帰農同盟、帰農同盟の協力を仰いだアイヌ小作農の間で三分割された。 また、第二次大戦後に札幌に駐屯した連合国軍最高司令部の第9方面軍司令ジョセフ・スイングと会見した際には、スイングから「独立する気持があるなら今ですよ」と、10万円の現金と共にアイヌの独立意志の有無を問われたが、アイヌ代表として出席した小川、椎久堅市、森久吉、文字常太郎の4名は「独立する考えは毛頭ありません。アイヌ民族は日本国民の一員として、祖国の再建と繁栄に尽くします」と返答。これに対しスイングは「今、独立しないで、後で日本人とけんかするようなことは絶対しないように」と念を押して会談は終了した。しかし小川らがアイヌ協会に戻ると「そんな大事なことをなぜ4人だけで決めてきたのか」と過半数のアイヌから反発の声が上がった。アイヌ協会発足の前年に小川宅で協会の定款づくりが行われた際に、真剣味のほどは不明ながらもアイヌ独立の話が出ており、アイヌ文学者の知里真志保は自治や独立についてノートに書き留めていたとされ、同僚の武田泰淳にも独立論をぶっていた。椎久堅市は後に「あの当時は、まだ日本の魂は消えてねえんだから、大和魂はお互いに。だから日本人だということも正しいと思って言ったことが反発を受けた」としながらも、当時のアイヌ協会には民主主義的な話し合いがなかったと述べ、スイングと会見した4者が事後に集まった際「我々はみんな失敗したな」と自省したという。 1947年には道議会議員選挙に立候補したが落選。1974年にはアイヌ無形文化伝承保存会を設立し、初代会長となる。1979年には「アイヌ文化の普及」を理由として北海道文化財保護功労賞を授与された。
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