わずか11年で終わったゴルフ場時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 07:31 UTC 版)
「グリーンハウス (藤沢市)」の記事における「わずか11年で終わったゴルフ場時代」の解説
戦時体制が強化されていく中、もともと何かと世間からの風当たりが強かったゴルフ場は、厳しい受難の時代を迎えた。1937年(昭和12年)頃からはゴルフボール不足が目立つようになり、翌1938年(昭和13年)には輸出用以外のゴルフボール生産が禁止され、ゴルフボールも各ゴルフ場に配給する方式となる。強まる逆風の中、ゴルフの競技自体も鍛錬を重視するとしてキャディの廃止、そしてゴルフ場内の遊休地を利用して農作物を生産するなどの対応が進められた。そしてゴルフ用語の日本語化が進められ、ゴルフクラブを打杖、ドライバーを木の一番などというような言い換えが進められた。もちろん外来語であるゴルフそのものも言い換えの対象であり、打球と呼ばれることになって、1942年10月には日本ゴルフ協会は大日本体育会打球部会と改称され、各ゴルフ倶楽部もそれに倣って打球会と改名された。もちろん藤沢ゴルフ倶楽部も藤沢打球会と改名された。 藤沢ゴルフ倶楽部についても、1940年(昭和15年)9月の横浜貿易新報紙上に「新体制に即応せぬゴルフ遊戯の縮小を切望する」と題された、特権階級の享楽的スポーツであるゴルフを糾弾し、生産的活動に何一つプラスとならない、わずかな特権階級のブルジョワ的趣味を満足させるのみゴルフ場を農地へと転換し、食料増産に活用すべしとの意見が掲載されるなど、戦時体制の強化に従って風当たりが強くなっていく。このような情勢下で1941年(昭和16年)、藤沢カントリー倶楽部は農事畜産部を新たに設け、ゴルフ場内の遊休地などを利用してサトイモ、ニンジン、キャベツ、ジャガイモ、サツマイモなどの生産、ヒツジを飼育して羊毛の生産、更には自家用の燃料として木炭の生産などを行った。そしてガソリン節約のため自家用車、タクシー利用によるゴルフ場来場が禁止されたため、藤沢駅からクラブハウスまで会員送迎用の馬車が用意されるようになった。 結局、藤沢打球会(藤沢カントリー倶楽部)は、1943年(昭和18年)10月に横須賀海軍施設部に徴用されることが決定した。藤沢打球会の役員はせめて9ホールだけでも残して欲しいとの陳情を行ったものの通ることはなく、結局、会員、プロ選手を招待してお別れ競技会を開催した後、10月24日には施設が閉鎖され、ゴルフ場としての歴史を閉じることになった。そして藤沢打球会は藤沢土地運営株式会社と改称され、残務整理等に当たった。戦後、藤沢カントリー倶楽部は再開されることはなく、藤沢カントリー倶楽部はわずか11年余り、仮オープンからも12年でその歴史を閉じることになった。
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