わずか六年での解任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 02:19 UTC 版)
1793年7月、定信は突然老中を解任されることとなり寛政の改革はわずか六年で幕を閉じた。その背景として尊号一件などにより、家斉等と定信との対立、その他、大奥の予算の大幅削減や不良女中を厳しく罰するなどと定信と大奥との対立の深刻化などが挙げられる。また、あまりに厳しい緊縮政治の結果、武士や庶民の不満が高まっていたことも理由にある。その突然の解任は、落首に「五、六年金も少々たまりつめ、かくあらんとは誰も知ら川」と歌われた。 寛政6年、定信の帰国が予定される中で、尾張・水戸両家は老中、松平信明、本多忠籌に対し、下々が定信を惜しんでおり人心を落ち着かせるため御用部屋にて政治に関与しているように装ったほうが将軍のためではないかと語った。だが、当時幕閣内部において定信の政治の独裁的傾向への反発が強まっており、両名は世上では彼を惜しんでいるというが、皆がそういうわけではない。彼を世上の感情のみを配慮して用いるのは、政治の軽視にあたる、などと拒否した(p152-153)。 しかし、寛延の改革の政治方針は、定信が失脚した後も、後任の老中首座となった松平信明を初めとする寛政の遺老たちによって引き継がれ、定信の政治路線は継承・発展していった(p12-13)。これは、文化14年(1817年)に信明が病没し、水野忠成が新たな老中首座となるまで維持された。
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