たっこくのいわやとは? わかりやすく解説

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達谷窟

名称: 達谷窟
ふりがな たっこくのいわや
種別 史跡
種別2:
都道府県 岩手県
市区町村 西磐井郡平泉町
管理団体 平泉町岩手県
指定年月日 2005.03.02(平成17.03.02)
指定基準 史3
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: 達谷窟は岩手県南部奥州藤原氏拠点平泉南西約6km位置する北上川支流である大田川沿いの谷を西にさかのぼると、谷の分岐点となる丘陵尾根先端部に現在の達谷西光寺境内がある。境内西側には、東西長約150m最大標高差約35mの岸壁があり、その下部岩屋懸造の窟毘沙門堂造られている。この西側岸壁上部には大日如来あるいは阿弥陀如来といわれる大きな磨崖仏刻まれている。これらの岸壁中心にした建物磨崖仏が達谷窟を象徴するものであり、現在でも達谷西光寺境内往時面影とどめている。
 『吾妻鏡』文治5年(1189)9月28日によれば源頼朝平泉攻め滅ぼした後、鎌倉への帰路に「田谷窟」に立ち寄ったとされる。これが史料上の初見である。また、同条によれば、この岩屋坂上田村麻呂当地攻めた際、蝦夷要塞として使っていたもので、のちに田村麻呂この前多聞天像を安置した九間四面精舎建てて西光寺号したという。位置から見てこの岩屋当時幹線道路である「奥大道」の経路面していたことが推測される
 窟毘沙門堂達谷西光寺境内にあるが、西光寺はその別当であり、両者厳密に区別されていた。窟毘沙門堂近世初期建物昭和21年焼失し昭和36年再建され今日至っている。この南側蝦蟇が池があり、その中島弁天堂建っている。昭和63年平泉町教育委員会が窟毘沙門堂前にトレンチ設定して発掘調査したところ、東西延び石組み確認された。これは川原石積み上げた池の護岸考えられ大量の「かわらけ」(土師器皿)が出土したかわらけ柳之御所遺跡など平泉中枢部で出土するものと同じく12世紀後半比定される。この成果から考えると、現在の蝦蟇が池は藤原氏の時代までさかのぼり仏堂前面に池が伴うという浄土庭園通じた空間構成形成されていたと考えられる
 窟毘沙門堂東側には現在の西光寺本堂金堂不動堂などがある。さらにその南東側の「ようげ」と称される地の背後尾根には空堀確認され中世要害推定される。達谷窟は、中世には窟毘沙門堂中心に周辺広く多数の子院が分布していたことが知られるが、近世以降別当西光寺と脇院鏡學院残して退転した。しかし、達谷窟としてその後広く信仰の対象となってきた。
このように達谷窟は、藤原氏の時代から象徴的な岸壁岩屋仏堂造り、その前面に池を伴う有力な寺院であり、中世には周辺子院有していた。したがって平泉における宗教施設実態理解する上でも欠くことのできない重要な意義をもっている。よって、史跡指定し保護図ろうとするものである
史跡名勝記念物のほかの用語一覧
史跡:  退蔵院庭園  通法寺跡  造山古墳  達谷窟  遠見塚古墳  那須官衙遺跡  那須小川古墳群



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