『エディンバラ・レビュー』創刊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 04:38 UTC 版)
「フランシス・ジェフリー」の記事における「『エディンバラ・レビュー』創刊」の解説
1798年にロンドンに出て、ジャーナリズムに手を出すがうまくいかず、また定職にもつけなかった。1801年キャサリン・ウィルソン(Catherine Wilson)と結婚する。1805年に妻キャサリンが死去したが、1810年には、ニュー・ヨークのチャールズ・ウィルクス(Charles Wilkes)の娘で、急進的ジャーナリストでロンドン市長も務めたジョン・ウィルクスの又姪であるシャーロット(Charlotte)と親密になる。彼女がアメリカに帰国した際ジェフリーも同伴し、2人は1813年に結婚した。夫婦はスコットランドに戻る前にアメリカの都市をいくつか周り、この経験を通じてアメリカに対する融和的な政策を一層強く擁護するようになった。 最初の結婚を機に安定した収入が一層必要となっていた中、ロンドンにあるジェフリーの家でシドニー・スミス(Sydney Smith)、ヘンリー・ブルーアム, フランシス・ホーナー(Francis Horner)らが集まった際にスミスが新しい文芸雑誌の発案をし、それがきっかけで1802年10月10日の『エディンバラ・レビュー』(Edinburgh Review )創刊に至った。 当初『エディンバラ・レビュー』には編集者がおらず、最初の3号はスミスの手によって編集がなされたが、彼がロンドンに発つ際に業務はジェフリーの手に委ねられ、1803年から1829年の間、上院での弁護士業務の傍らで当雑誌の編集者を一人で務めた(33号と34号、及び1813年から1814年のアメリカ滞在期間を除く)。 関係者のほとんどはホイッグ党支持者であり、雑誌の方向性は概して社会・政治の変革を訴えることにあった。当時のスコットランドでホイッグ党の声を代弁するメディアは皆無だったこともあり、コックバーン卿(Henry Cockburn)によると、『エディンバラ・レビュー』の創刊号のインパクトは「衝撃的("electrical")」であった。ただし、元々は党派色を前面に打ち出していたわけではなく、寄稿者の中にはウォルター・スコットのようなトーリー党もいたが、雑誌のホイッグ側を鮮明にしたのは、1808年にジェフリー自身が書いた、フランス軍のスペイン侵略に関するペドロ・セヴァーヨス(Pedro Cevallos)の作品についての記事以後である。この記事はスペインでのイギリス軍の活動に失意の念を表明したため、スコットが即座に購読を取り下げ、トーリー側の『クォータリー・レビュー』が創刊されるきっかけにもなっている。 当時のイギリスの評論紙は実質的に出版者の手中にあり、寄稿記事も雇われ文筆家が出版者の利害に沿って書くよう指示されていた。一方『エディンバラ・レビュー』は、出版者ではなく編集者の指示を受けて記事を書く、有能かつ独立した書き手スタッフを抱えていた。彼らの手取りは1シート(16ページ)あたり6ギニーで、多くの場合後に25ギニーまで上がった(ロンドンの評論家は2ギニーしか受け取っていなかった)。 創設に携わった有能なメンバーらが離脱したのちも、この方法の一般的な原理や目新しさゆえに、雑誌は成功の道を辿った。総計で12,000部が配布され、ジェフリーの編集は1829年6月発行の98号まで26年続いた。ジェフリーが辞めた後、編集は弁護士マクヴィー・ネイピア(Macvey Napier)が引き受けた。法律家のジョン・オースティン、哲学者のジョン・スチュアート・ミル、バートランド・ラッセル、詩人のフェリシア・ヘマンズ(英語版)など様々な分野の学術家や政治家が寄稿した。
※この「『エディンバラ・レビュー』創刊」の解説は、「フランシス・ジェフリー」の解説の一部です。
「『エディンバラ・レビュー』創刊」を含む「フランシス・ジェフリー」の記事については、「フランシス・ジェフリー」の概要を参照ください。
- 『エディンバラ・レビュー』創刊のページへのリンク