「遠山の金さん」を巡る諸説
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「遠山景元」の記事における「「遠山の金さん」を巡る諸説」の解説
景元は青年期の放蕩時代に彫り物を入れていたといわれる。有名な「桜吹雪」である。しかしこれも諸説あり、「右腕のみ」や「左腕に花模様」、「桜の花びら1枚だけ」、「全身くまなく」と様々に伝えられる。また、彫り物自体を疑問視する説や、通常「武家彫り」するところを「博徒彫り」にしていたという説もある。 景元が彫り物をしていた事を確証する文献はないが、時代考証家の稲垣史生によれば、若年のころ侠気の徒と交わり、その際いたずらをしたものであると推測される。続けて稲垣の言によれば、奉行時代しきりに袖を気にして、めくりあがるとすぐ下ろす癖があった。奉行として入れ墨は論外なので、おそらく肘まであった彫り物を隠していたのではないかという。ただ、これらは全て伝聞によっており、今となっては事実の判別はし難い。 近世文学を専門とする棚橋正博は、明治26年11月初演の『遠山桜天保日記』の脚本に「片肌脱ぎで双方をなだめる。この腕に生首が文をくはへたるぼかしの彫物一杯ある」とある点から、仲間同士の喧嘩を仲裁する際に彫り物を見せる場面が「遠山の金さん」の初出であり、その彫り物は生首が手紙を咥えたものだったと指摘している。 景元は長年痔を患っており、馬での登城が困難になり、景元の身分では駕籠での登城は許されていなかったが、文政9年9月、痔疾を理由に5か月間の駕籠による登城許可を幕府西ノ丸目付に申請した起請文が江戸東京博物館に残っている。 景元の死後、講談・歌舞伎で基本的な物語のパターンが完成し、陣出達朗の時代小説「遠山の金さんシリーズ」などで普及した。現在では、テレビドラマの影響を受けて名奉行として世に認知され、時代が100年ほど違う大岡忠相と人気を二分することもある。しかしドラマのような名裁きをした記録はほとんどない。そもそも三権分立が確立していない時代、町奉行の仕事は江戸市内の行政・司法全般を網羅している。言わば東京都知事と警視総監と東京地方裁判所判事を兼務したような存在であり、現在でいうところの裁判官役を行うのは、町奉行の役割の一部でしかない。 ただし、当時から裁判上手だったという評判はあり、名裁判官のイメージの元になったエピソードも存在する。天保12年8月18日の「公事上聴」(歴代の徳川将軍が一代に一度は行った、三奉行の実際の裁判上覧)において、景元は将軍徳川家慶から裁判ぶりを激賞され、奉行の模範とまで讃えられた。景元が、たびたび水野や鳥居と対立しながらも、矢部のように罷免されなかったのは、この将軍からの「お墨付き」のおかげだと考えられる。景元のこうした「能吏中の能吏」としての名声は、時代が江戸から明治に移っても旧幕臣をはじめとした人々の記憶に残り、景元を主人公とした講談を生み、映画やテレビの時代劇へ継承される大きな要因となったと言えよう。
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