「封印」の状況とメディアでの扱い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 04:51 UTC 版)
「ドラえもん (1973年のテレビアニメ)」の記事における「「封印」の状況とメディアでの扱い」の解説
2022年6月の段階で、再放送・DVD化・ネット配信はなく、テレビ番組などでまれに紹介される機会があっても、本作に関する説明がなされたこともほとんどない(雑誌やムック本などのドラえもんや藤子アニメの年表にも本作のことが掲載されていないケースが多い)。その理由と経緯については、安藤健二の著書『封印作品の憂鬱』(洋泉社、2008年)において、小学館関係者などの証言が詳しく述べられている。 原作者の藤子・F・不二雄(藤本弘)は本作の内容に否定的であったとされる。生前に公の場で明確に本作を否定した発言はないが、後述の富山テレビでの再放映を知った際の反応のほか、第三者による証言として 新旧両方の『ドラえもん』に関与した美術監督の川本征平は「以前やったことは非常に悔いが残る」といったことは言われた。 安藤健二の照会に対して藤子プロ代表取締役(当時)は「『本来のドラえもんの持ち味を出していない作品であり、作品のイメージとはかけ離れたものであった。海外の輸出用として制作されたアニメーションのようで、作者として気に入った作品ではなかった』と申しておりました」と文書で回答した。 シンエイ動画元社長の楠部三吉郎は、再アニメ化の許諾を得た頃に「『ドラえもん』だけは(引用者注:『オバケのQ太郎』や『パーマン』と違って)出戻りなんです。さんざんな仕打ちを受けて戻って来た、かわいそうな娘です」と言われた。大山のぶ代も本作の再アニメ化に対し「嫁に出し傷ついて帰って来た娘を再び世に出すのは嫌だ」と、難色を示す発言を藤子・F・不二雄から聞いたと夫の砂川啓介が記している。 えびはら武司は、放送終了後に藤子Fが「この件についてはいっさい語りたくない」と漏らしていたと証言している。 といったものがある。このアニメ化は、前記のように日本テレビのプロデューサーからの小学館への申し入れによって決まったとされ、当初藤子・F・不二雄は日本テレビから寄せられた依頼に応じて舞台となる街や野比家の設定に使う絵を制作会社に送ったりしたが、それに対する反応がまったくなかったと前記の井川浩は述べている。 その一方で真佐美によると、藤子・F・不二雄との打ち合わせに関しては、当初は真佐美が喫茶店で当たっていたと証言しており、「原作者からの注文や要望は最後までなかった」と述べている。その後、藤子・F・不二雄は次第に仕事の都合から出向いてまで打ち合わせを行える暇がなくなり、その際には当時藤子・F・不二雄と共に「藤子不二雄」として活動していた名義上は本作の原作者の一人である藤子不二雄Ⓐ(安孫子素雄)と構成などの打ち合わせをしたという。藤子・F・不二雄とのパイプ役には文芸担当の徳丸正夫が「演出的センスを持っていて人当たりがよく辛抱強い」という理由から「原作者との校閲係」に選ばれ、藤子・F・不二雄との「脚本」「絵コンテ」「キャラクター設定」「色指定の校閲」のパイプ役として打ち合わせにあたっていたという。徳丸正夫は打ち合わせをするため、スタジオ・ゼロ(かつて藤子スタジオはスタジオ・ゼロのビル内にあった)に24時間待機して、空いた時間を使って藤子・F・不二雄と常に校閲を行っていたという。これらの点は、井川浩ら「原作者や小学館とは没交渉のままアニメ制作が進められた」という小学館関係者の証言とは大きく食い違っている。フィルムの編集作業は、当時の藤子スタジオと同じビルのスタジオ・ゼロで行われていた。 放映中に制作会社が突然解散したことで残されたスタッフは債権処理などに追われた。そのためか「番組が打ち切られた報せが小学館に来なかった」と、井川浩は述べている。 当時の漫画界では「アニメが終わったら原作も終わる」というのが常識であり、そのため『ドラえもん』も一時は連載を終わらせ、新キャラクターと入れ替えようという話が小学館から出ていたという。しかし自作『ドラえもん』に愛着のあった藤子・F・不二雄は、それを押し切る形で新連載である『みきおとミキオ』との2本立ての形で連載を続行したが、1974年より刊行が始まった『ドラえもん』の単行本が予想外の大ヒットとなったため、『みきおとミキオ』の連載は1年で打ち切られた。
※この「「封印」の状況とメディアでの扱い」の解説は、「ドラえもん (1973年のテレビアニメ)」の解説の一部です。
「「封印」の状況とメディアでの扱い」を含む「ドラえもん (1973年のテレビアニメ)」の記事については、「ドラえもん (1973年のテレビアニメ)」の概要を参照ください。
- 「封印」の状況とメディアでの扱いのページへのリンク