「国退民進」の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/08 15:15 UTC 版)
計画経済時代国有企業は、「共和国の長男」として経済を担う唯一の主体として多くの資源が投入されており、国有経済の維持は社会主義国であり続けるためのレゾンデートルであると伝統的に考えられてきた。1978年に改革開放政策が始まると、「経済の活性化のためには、国有企業の改革が不可欠」であるとの考え方も強まったが、伝統的な国有経済に対する考え方との間で、意見が対立し、議論も膠着状態に陥った。1980年代後半、インフレーションと天安門事件の影響で経済は深刻な打撃を受けた。国有企業をめぐるこの論争に一定の決着を付けたのが、1992年の鄧小平の「南巡講話」である。経済の停滞を打開するため、当時半ば引退の状態にあった鄧小平が、経済発展の先進地域であった広東省などを訪問し、「発展才是硬道理(発展こそ一番重要な原則だ)」と宣言し、社会主義の体制維持よりも、経済発展を優先させることを促した。この自由化路線で、民営企業の参入が広い分野で認められるようになると、非効率で硬直的な国有企業は、民営企業との競争に敗れ、赤字に転落するものも多くなった。ここでも国有企業を保護する声があがったが、朱鎔基首相は国有企業改革を断行する。政府が無限に責任を負う関係になっていた国有企業について、出資者が誰なのかを確定し、その出資者の責任を有限とする「企業化」を行う。この作業は中国語では「改制」と呼ばれた。従業員に対しても「ゆりかごから墓場まで」無限に負っていた責任を減らし、従業員に一定の補償金を払えば、解雇することもできるようにした。そして「抓大放小(大をつかみ小を放つ=大企業は国家が掌握し、小企業は市場に任せる)」というスローガンのもと、規模の小さい国有企業に関しては「改制」のあと一度政府が握った株式を売り出すという民営化を進めた。1990年代末から始まった国有企業の「改制」の波は、規模の大小を問わず全国津々浦々の国有企業に及んだ。国有企業の「改制」は、企業の所有権、資本構造を確定する作業であった。多くの上場企業には最大支配権を握る持ち株会社が存在し、多くの場合「集団公司」と呼ばれる。この「集団公司」は中央、地方の各レベルの政府の支配下に置かれる。一方、経営が赤字に陥っていた企業にあっては、「改制」の際、出資者を確定すると同時に銀行債務の整理も行われ、経営破綻する国有企業も現れた。こうした企業の再構築にあたっては、企業の買い手として民営企業からの出資も認められるようになる。こうして国有企業が民営企業に転換することも各地で起きた。このような、国有企業への国の関わりを限定していく一連の作業が「国退民進」とよばれるようになった。こうした「国退民進」改革により、1998年には23万8000社あった国有企業が、2003年には13万6000社に大幅に減少している。ただし、国有総資産は逆に15兆5000億元から19兆7000億元に増加しているのである。
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