「国王殺し」と反逆者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/28 15:25 UTC 版)
「イングランド王政復古」の記事における「「国王殺し」と反逆者」の解説
1660年8月に成立した免責・大赦法は「国王殺し」(レジサイド)と呼ばれるチャールズ1世処刑に関与したもの以外は革命中の国王への反逆行動に関し責任を問わないとした。チャールズ1世を死刑に処した判事59人のうち31人は存命だった。 裁判で20人が死刑を宣告された。第五王国派のトマス・ハリソン(死刑執行令状にサインした59人の判事のうち17番目)に初めて「国王殺し」として有罪判決が下り、彼はこの中で最初に首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑に処せられた。再構築された秩序に対しての真の脅威を象徴すると新政府が考えたからだ。 10月、ロンドンのチャリング・クロスまたはタイバーンで、10人が公的に首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑に処せられた。令状にサインしたハリソンを始めエイドリアン・スクループ、ジョン・カリュー、トーマス・スコット、グレゴリー・クレメントと説教師ヒュー・ピーター、国王の裁判と処刑において指令を出したフランシス・ハッカー、ダニエル・アクステルと処刑を監督した事務弁護士ジョン・クックだ。 オリバー・クロムウェル、ヘンリー・アイアトン、トマス・プライド判事、ジョン・ブラッドショー判事は死後大逆罪で告発された。通常時の審理と有罪判決システムと比べ、議会が国内で最も力を持つ法廷だったので、私権剥奪法が誰かを反逆や重罪で有罪だと宣言する法令であった。1661年1月、クロムウェル、アイアトン、ブラッドショーの死体が墓から掘り出され、タイバーンで絞首刑に処せられた。 1661年、チャールズ1世の死刑執行命令書にサインした「国王殺し」の一人、ジョン=オーキーはマイルズ・コルベット(クロムウェルの友人かつ弁護士)と前ロンドン塔長官ジョン・バークステッドとともにオランダから連れ戻された。彼らは全員ロンドン塔に投獄された。1662年4月19日、彼らはロンドン塔からタイバーンに連行され、首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑に処せられた。残り19人の「国王殺し」は終身刑に処せられた。 ジョン・ランバートはチャールズ1世の裁判時ロンドンにいなかった。王政復古期において、彼は大逆罪で有罪だとされ、まずガーンジー島、次にドレイク島に収監されドレイク島での収監中に死亡した。ヘンリー・ベイン卿は国王の処刑を承認したと誓うのを拒否したにもかかわらず、空位期間にイングランド国務会議に勤務していた。王政復古期に議会での大論争の末、彼は免責・大赦法の適用外とされた。1662年、大逆の疑いで裁判を受け、有罪判決が下り、1662年6月14日にタワー・ヒルで斬首された。
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