「国王代理」から摂政へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 23:27 UTC 版)
「ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)」の記事における「「国王代理」から摂政へ」の解説
1857年秋になると兄王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の精神病が悪化して精神錯乱状態に陥った。プロイセン憲法上ヴィルヘルムが摂政に就任するべきところだったが、首相オットー・テオドール・フォン・マントイフェルや侍従武官長ゲルラッハら「カマリラ」は彼が摂政に就任することによって自由主義政策が行われることを恐れていたため、摂政の設置に応じようとせず、10月23日にヴィルヘルムを3か月の期限付きで憲法上に規定がない「国王代理人」なる地位に就けた。完全なる君主権を有する摂政ではなく「国王代理人」とすることで国王の従来の方針にヴィルヘルムを縛りつける意図だった。ヴィルヘルム派はこれを「憲法違反」として批判し摂政の設置を要求した。 ヴィルヘルム当人は「国王代理人」職を神から与えられた使命と感じて快諾し、この地位に留まる限り自分独自の政策を実行する意思はなかった。兄王の「善良な人柄」と義姉の王妃エリーザベトへの思いやりを念頭に行動することを心がけていたという。1858年1月、4月、7月と3か月の期限を迎えるたびに国王の勅書によってヴィルヘルムの「国王代理人」職が更新された。マントイフェル首相は出来る限りこの状態を継続させたかったが、法相や議会から憲法上の根拠の乏しさを追及され、とうとう内閣でも摂政を設置すべきとの意見が多数派となった。10月7日に至ってついにヴィルヘルムを摂政に任じる勅書が出された。
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