「プレシューズ」の登場について
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「才女気取り」の記事における「「プレシューズ」の登場について」の解説
17世紀前半から中盤のフランスは、長年に亘る内乱や宗教戦争がようやく落ち着いたころで、戦乱時代の荒々しい雰囲気が至る所に残っていた。アンリ4世の時代になって王権がようやく確立され、国王に屈服した貴族たちが延臣としてパリに留まり、彼らは宮廷の貴婦人たちとともに社交界を形作るようになった。彼らは一切の行為や思想において、常に社交界を念頭に置かねばならなくなり、自分を美しい形で人に見せようという意識が生まれた。とりわけ婦人たちに対しては、優雅な態度をもって接しようとする動きが出るのは当然であり、かくして「ギャラントリー (Galanterie)」が生まれたのであった。 これと時を同じくして、カトリーヌ・ド・ヴィヴォンヌが、ランブイエ侯爵と結婚して侯爵夫人となり、アンリ4世の宮廷に招き入れられた。彼女の父親はローマ駐在のフランス大使であり、同時期のイタリアではルネサンスが円熟期を迎えていた。そのため、文明の空気を存分に吸収して彼女は育ったわけであり、そのような彼女にとってフランス王宮に漲る粗野な雰囲気は到底耐えられるものではなく、失望し、宮廷生活に見切りをつけて、自宅にサロンを開いたのであった。 彼女はこのサロンに国王家をはじめとする名門貴族や文化人たちを招いて、文学作品の朗読会を行ったり、討論会が行ったりするなど、高度に知的な快楽を追及していた。このサロンには多くの人が集まることとなり、そうしてこれまでの社会に通用していた道徳とはまた違った、社交界のしきたりが生まれた。他人に不快を与えないよう、態度、服装などに注意し、一切の過激さを排除する。こうしてオネット・オム (honnête homme) と呼ばれる社交人の典型が生まれたのであった。『人間嫌い』のフィラントなどはその分かりやすい好例である。 ランブイエ侯爵夫人のサロンが、言語や服装の美化、風俗の是正に果たした役割は極めて大きく、サロンが一つの流行となり、これを真似たサロンがいくつも開かれた。彼女のサロンに出入りする才媛をプレシューズ(Précieuses)、男性ならプレシュー(Précieux)と呼んだ。プレシューズという言葉が、本作において攻撃対象となったように、「衒学的で、お高くとまっている女」といった意味を帯びたのは1650年代になってからである。ランブイエ侯爵夫人がサロンを開いた当時、つまり1620年代の段階では、侮蔑的な意味は持っておらず、彼女たちをプレシューズと呼ぶとき、その意味で解釈するのは誤りであり、単に「教養のある女性」くらいに捉えるべきである。 プレシューズの意味とともに、その主張や風潮を表す言葉「プレシオジテ(Préciosité)」の意味も変遷していった。プレシオジテは1680年代頃に終わりを迎えるが、その期間を大別して2期に分けることができる。ランブイエ侯爵夫人のサロンを中心としていた前期(1620~1648年)とマドレーヌ・ド・スキュデリーのサロン「土曜会」を中心とする後期(1650~80年)である。元々プレシオジテは「粗野で殺伐とした風潮を一掃する」ことに目的があったが、次第に先鋭化し、愚劣で滑稽なものへと転じていった。モリエールが本作を公開したころには、流行を無批判に受け入れ、一流の才媛たちを真似して喜んでいる無知蒙昧な田舎娘たちまでもがプレッシューズを名乗るようになり、その滑稽さはいよいよとんでもないものになっていたのである。 プレシオジテは確かに滑稽な面もあったものの、フランス文学や社会に果たした貢献は決して少ないものではない。プレシオジテによって、風俗は浄化され、フランス語は美しく洗練された言語へと進化した。現代フランス語においても、彼女たちの創案による語句や表現は多く残っている。このように、プレシオジテはフランス人の精神と深くかかわりを持っているものであり、この風潮にランブイエ侯爵夫人は多大な影響を与えた。
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