「クリーム戦線」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/05 22:49 UTC 版)
(ヴェーザー演習作戦)も参照 デンマークはドイツの北隣にあるが、第一次世界大戦では局外中立を保っていた。地続きゆえドイツとの間に若干の領土問題はあったが(シュレースヴィヒ問題、ヴェルサイユ条約も参照)、外交関係は険悪なものではなく、ヨーロッパに再び戦争の影が差した1939年5月には相互不可侵条約を締結してもいた。ところがヒトラーの見込みに反し1939年9月に戦争が始まってしまうと、状況が変わる。ドイツの戦争継続のためには軍需物資としてスウェーデンの鉄鉱石が必要であり、その積出港としてノルウェーも必要だった。しかし1939年12月、イギリス・フランスはソ連に侵略されたフィンランド支援のため、軍隊をノルウェーに送ることを決定。ヒトラーから見れば、ノルウェーが連合国軍に占領されてしまう可能性が出てきた。 先手を打ってノルウェーを確保する。そのためには、地理的にデンマークも放置しておくわけにはいかなかった。 1940年4月9日、ドイツ軍は「ヴェーザー演習」作戦を発動し、夜明けと共にノルウェーとデンマークへ侵攻した。ホーコン7世率いるノルウェーは徹底抗戦を選んだが、デンマークはその日のうちに降伏した。国王クリスチャン10世は、貧弱なデンマーク軍で陸路侵攻するドイツ軍に抵抗することの無意味さを理解していた。 ほぼ無抵抗でドイツの「保護占領」下に置かれたデンマークに対し、ドイツは非常に寛大な態度で接した。デンマークの主権は認められ、その政府と軍・警察も存続が許された。安定した経済、豊富な食糧、そして戦闘や空襲の危険が少ないデンマークは「クリーム戦線(独:Sahnefront)」とあだ名が付くほどにドイツ人たちから好まれる休暇先になった。 しかし戦争が長期化するにつれて、状況は変わる。デンマークはドイツの求めに応じ海軍艦艇の「貸与」や国内での武装親衛隊の兵員募集を認める一方、その保有商船の過半とアイスランド、フェロー諸島を連合国軍の手に委ね、また連合国軍が大陸反攻の準備を開始するとイギリスの手引きによるレジスタンス運動を徐々に表面化させていった。1942年、国内での工場爆破件数は前年の10倍の120件に増加(初めて鉄道爆破事件も発生した)、1943年はこの年前半だけで1000件近くを記録するようになっていた。 デンマーク政府も1942年春、ドイツに対し自主性を保つ路線を採ってきたトーワルド・スタウニング首相が死去。一人おいてドイツの圧力で対独融和的と見られたエリック・スカヴェニウス元外相が後継となったが、そのスカヴェニウス首相も国内でのユダヤ人狩りへの協力、レジスタンス運動取締りの厳罰化、デモ・ストの全面禁止などドイツの数々の政治要求には応じなかった。またクリスチャン10世も9月26日の国王誕生日の祝電の返礼でヒトラーを挑発するなど、二国間の信頼関係は失われていることが明らかになった。 1943年7月、連合国軍がシチリア島に上陸した。同様の侵攻が北海沿岸でも行われる可能性を警戒したドイツ軍は、デンマーク政府の寝返りまたは連合国軍上陸の手引きを恐れ、デンマーク全土の直接占領を決定した。
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