関門トンネル (山陽本線)
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運用
戦時中から戦後まもなくにかけて
関門トンネルは、先に開通した下り線で1942年(昭和17年)6月11日から試運転を開始し、6月20日から臨時扱いでの貨物列車の運転が開始され、7月1日に正式に貨物用に開通した[307]。旅客列車の運転開始は11月15日となった[307]。当時、山陽本線の電化区間は西明石までで、九州島内の国鉄線には電化区間はなく、蒸気機関車が列車を牽引していた[420]。しかし関門トンネルでは急勾配とトンネルの長さの条件から蒸気機関車は使用できず、幡生操車場から門司操車場までの間の10.4キロメートルが直流1,500ボルトで電化された[421]。このために、旅客・貨物の両用にEF10形電気機関車が投入された[422]。EF10形は丹那トンネル開通に際して開発された貨物用の機関車であった[422]。のちに、関門トンネルで運用される機関車は塩害が激しいことから、外板をステンレス製のものに交換し、さらに耐食アルミニウム合金[注 49]を使用したパンタグラフを採用し耐塩害塗装を施すなど、塩害対策に十分に気を配ることになった[422]。
旅客列車は、下関駅と門司駅の間の6.3キロメートルを、1両のEF10形で牽引して約9 - 10分程度で走行した[424]。機関車1両での牽引力は600トンとされた[422]。貨物列車については、下関の手前の幡生駅付近にある操車場を改良して、1日2,500両の処理能力のある平面式操車場[注 50]とし、一方、九州側では門司駅構内に1日2,600両の処理能力のあるハンプ式操車場[注 51]を建設した[426]。これらの操車場は対になって役割を果たすもので、九州島内から本州方面への貨物列車はトンネルをそのまま抜けて幡生操車場で行先別に組み替えられて送り出され、一方本州から九州島内への貨物列車はトンネルをそのまま抜けて門司操車場で行先別に組み替えられて送り出される運用がとられた[426]。このため、貨物列車は幡生操車場から門司操車場までの間をEF10形が牽引して走ることになった[421]。貨物列車は重連運転(2両の機関車で牽引)とされ、1,200トンの列車を牽引した[422]。いずれもトンネル内の急勾配と湿った線路のために空転や滑走が続発し、対策として最大5トンの死重を搭載し、大量に砂を撒いて走行していた[422]。撒かれる砂は毎月20トンにもなり、砂を取り除く保線作業は大変なものであったという[427]。
運行開始された旅客列車は、東京 - 長崎間の特急「富士」1往復(第1・2列車)、東京 - 鹿児島間の2・3等急行列車第7・8列車(従来の特急「櫻」を急行化)など、1日5往復の優等列車に加え、普通列車が東京と九州の間で1日3往復、京都・大阪と九州の間で1日6往復、山陽と九州の間で1日に下り5本、上り4本であった[427]。しかし戦局の悪化に伴い、旅客輸送は次第に削減されて貨物輸送に重点が置かれるようになっていった[428]。終戦直前の時点では、急行列車は東京 - 門司間の1日1往復にまで削減されていた[428]。貨物輸送の増強のため、変電所の水銀整流器が1944年(昭和19年)に増強され、EF10形の配置両数も15両から25両に増強された[429]。さらに空襲による被災に備えて、従来の変電所の設備の一部を移設する形で、彦島に地下変電所が建設されている[430]。地下変電所の完成は終戦後の1946年(昭和21年)3月となり、約20日間実際に運転したとされるが、10月に廃止されて設備が元の変電所に戻された[430]。空襲対策では、1944年(昭和19年)に変電設備の被災による停電に備えてD51形蒸気機関車によるトンネル内の牽引試験が行われ、上り22パーミル勾配で1両の機関車で1,000トンの引き出しに成功したが、これが関門トンネルにおける蒸気機関車運転の唯一の記録である[431]。1945年(昭和20年)2月1日、石炭を満載した貨物列車が上り線トンネルの上り勾配で立ち往生し、再度の発進に失敗したためトンネル内に退行したところ、連絡不足と安全確認の不徹底のため、閉塞信号により停車中だった後続列車と衝突する事故があった[432]。
第二次世界大戦末期に九州の電力事情が逼迫したため、中国地方から電力の送電を図ることになり、下関立坑と門司第2立坑の間の上り線トンネル内に、日本発送電の彦島変電所と新大里変電所を結ぶ22キロボルト特別高圧送電線1回線が敷設された[429]。しかしこの回線はまもなく、12月に110キロボルト関門幹線(関門海峡を横断する架空送電線[注 52])に置き換えられ、撤去された[429]。
終戦直前には交通の重要施設として、本土決戦に備えて北九州高射隊の13ミリ高射機関砲4門、将校1、下士官1、兵12が関門トンネルの防衛用に配置された[434]。一方の連合国軍は関門トンネルの破壊作戦を立案していた[435]。1945年(昭和20年)7月31日には、沖縄の基地を離陸したアメリカ陸軍のB-24爆撃機の編隊が、下関方のトンネル入口と橋梁を爆撃する作戦を実行しようとしたが、悪天候のために中止された[435]。1945年(昭和20年)8月5日付のアメリカ陸軍太平洋軍司令官から極東航空軍あての電文では、関門トンネルに対する爆破計画が指示されていた[436]。これは日本船に偽装した航空機救助船4隻に各25トンの爆薬を積んで送り込み、トンネル付近に沈めてリモコンで爆破するという作戦であった[436]。第二次世界大戦後、日本に進駐した連合国軍の中で工兵のヒュー・ジョン・ケイシー少将が、進駐直後に国鉄の現状を把握するために、当時の停車場課長立花次郎を呼び出して最初に質問したのが「関門トンネルは無事か」というもので、立花は「もちろん無事であります。関門連絡線は今日も多数の列車を走らせています」と答えたという[406][注 53]。
戦争が終結すると、引揚者の帰還輸送と、日本で働いていた朝鮮人・中国人の帰還輸送が開始され、そのための臨時列車が関門トンネルを通過して設定された[428]。また、日本を占領下においた連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、連合軍専用列車の設定を要求し、関東と九州を結ぶ専用列車が定期化された[428]。1946年(昭和21年)から1947年(昭和22年)にかけて極端な石炭不足により、急行列車の全廃、二等車の連結全廃などの措置がとられて鉄道の輸送力は大幅に減少したが、それでも関門トンネルを通過して東京と九州を結ぶ輸送だけは最低限確保されていた[428]。しかしこのころ、貨物輸送の減少もあって関門トンネルの通過列車は減少し、EF10形も一部が他の機関区に転属して、関門地区での配置数が減少した[438]。
もともと北九州地区の商用電源周波数は50ヘルツであり、関門トンネルに九州側から電力を供給する門司変電区の受電周波数も50ヘルツであった[164]。しかし第二次世界大戦後、北九州地区の電力需要は増加の一途をたどり、九州島内の電力網の連系を行い、また中国地方からの受電を行うことも急務となったこともあって、1949年(昭和24年)の閣議決定で九州地方の電源周波数を60ヘルツに統一することになった[164]。これに前後して、九州地区の実際の60ヘルツへの周波数変更作業が進められ、門司変電区の受電周波数も1948年(昭和23年)2月に60ヘルツ化された[164]。門司変電区の周波数変更が迅速に行われたのは、もともと信号機や排水ポンプなどの電源は当初から両周波数に対応するように設計されていたこと、列車走行用の電力供給についても変圧器のみ交換すれば済んだこと、国の機関として率先して周波数変更に対応する立場であったことなどが挙げられる[164]。一方で、関門トンネルの輸送量は低迷していたため、この機会に変電所の容量は削減され、水銀整流器が下関と門司の両方から1台ずつ1949年(昭和24年)に東海道本線電化用に静岡県の藤枝変電所と磐田変電所に移設された[429]。1951年(昭和26年)5月に電力事業再編成が行われ、下関変電区、門司変電区はそれぞれ中国電力、九州電力から受電することになった[164]。
海水に常時さらされている関門トンネル内のレールは、電気車の運転電流が漏洩しやすく、電気化学的な作用により金属イオンが溶け出す電蝕が発生するという問題を抱えていた[439]。このため戦中戦後の2回にわたり、通常は架線側がプラス、レール側がマイナスに印加されている直流1,500ボルトの電気の極性を逆転させて、レールをプラス、架線をマイナスにする極性変換試験が実施され、摩耗の軽減は見られた[440]。また、1954年(昭和29年)に強制排流器が設置された[439]。これは外部直流電源をレールと接地点の間につなぎ、運転電流[注 54]の漏洩分を相殺してレールの電位を負にするものである[439]。
1950年(昭和25年)6月25日に朝鮮戦争が勃発すると、九州北部の駅は朝鮮半島方面へのアメリカ軍やイギリス軍の部隊の出動や補給の拠点となり、本州方面から北部九州への軍事輸送列車が多数関門トンネルを通過することになった[428]。この際に、それまで関門トンネルには火薬類の通過制限が設定されていたが、アメリカ軍は火薬類通過制限の無条件解除を6月28日に指令し、危険を冒して輸送が実施されることになった[428]。
西日本水害による水没事故
1953年(昭和28年)の梅雨は例年になく早く始まり、特に西日本では雨が多く6月末になると4日間で600ミリを超すような60年ぶりという大雨が降った[441]。大雨は各地に被害をもたらし、のちに昭和28年西日本水害と記録されることになった。国鉄でも、680か所に及ぶ不通箇所が発生するなど大きな被害を受けた[441]。
6月28日日曜日も雨が降り続いており、関門トンネルに備えつけられた排水ポンプは稼働を続けて、トンネルに侵入する雨水を排出し続けていた[442]。11時頃、戸ノ上山の麓でがけ崩れが発生し、門司駅北側の大川を堰止めた[422]。これによって溢れた水は、南側の田畑川から溢れた水と合流して、門司駅構内に流れ込み始めた[422]。門司駅に設置された雨量計では、10時から12時までの間に155ミリという猛烈な雨を観測しており、この雨に川から溢れた水が加わり、門司駅からスロープ状の掘割になっている関門トンネルの門司方坑口へと流れ込み始めた[443]。関門トンネルの掘割を囲う防水壁の第13号架線鉄柱付近にある切り欠き(壁が途切れた部分)から架線をかすめるように濁水が噴出し始め、11時頃に巡回中の門司保線区員がこれを発見して通報した[444]。当時、京都と博多を結ぶ特急「かもめ」は、26日以来の豪雨で鹿児島本線が不通となって、上り列車を運転できずに博多に編成が取り残されており、次いで27日の下り列車で下ってきた列車も門司打ち切りとなっていたが、この門司打ち切りとなった編成を28日に上り臨時第6列車「かもめ」として運転する予定としていた[445]。しかし、11時2分に関門トンネルへの濁流の流入の通報を受けて、「かもめ」の発車は抑止された[444]。
続いて、下関側に連絡して下り列車の抑止を行おうとしたが、約800名の乗客を乗せた岩国発佐世保行下り第327列車は10時57分にすでに発車したあとであった[444][445][注 55]。関門トンネルを抜けてきた第327列車の機関士は、門司方の出口で防水壁の切り欠きからの落水に気づき、また公安職員の停止の指示を受けて、11時8分ごろ、トンネル出口の約70メートル手前で列車を停車させた[447][448]。保線区員が土嚢を積んで切り欠きを塞ごうと試みたが、思うように塞ぐことができず落水は止まらなかった[449]。仮に落水の中をそのまま通り抜けた場合、水流によってパンタグラフと車体の間が短絡されるか碍子の絶縁破壊を起こして電気機材や車体が焼損するおそれがあり、あるいは架線の溶断や変電所の遮断器の動作により停電して、トンネル内からの脱出が不可能になるおそれがあった[450]。電話で指令室の指示を仰いだところ、トンネル自体の浸水を懸念したことから強行突破の指示が出され、11時17分ごろに脱出を開始した[448]。列車が停止した場所から落水場所までは数十メートル程度しかなく、また急な上り勾配の途中で列車の引き出しは容易ではなかったこともあり、機関士はいったんトンネル内に列車を退行させた[451]。EF10形電気機関車は車両の前後に合計2台のパンタグラフを搭載しており、このうち前部のパンタグラフを下げて、後部のパンタグラフのみから集電した状態で列車を再発進させると、勢いをつけてトンネルから出てきて、落水箇所の直前で後部のパンタグラフも下げて落水箇所を惰性で通過し、通過直後に前部のパンタグラフを上げて門司駅へ向かい、11時24分ごろに無事に到着した[451]。
この直後の11時30分ごろ、防水壁の上を越えて水が滝のようにトンネル内に流れ込み始めた[424]。トンネル内各所に据えつけられた排水ポンプがフル稼働したが、11時45分ごろに上り線トンネル中央部のポンプが、11時50分ごろには門司方入口のポンプが使用不能となり、12時には下り線トンネル中央部のポンプ室の配電盤が浸水して爆発した[452]。本線トンネルから溢れた水は試掘坑道に流れ込み、弟子待と小森江の試掘立坑底部に集まってきた[452]。浸水により繰り返し遮断器が動作する中を変電所から排水ポンプへ強行送電が続けられていたが、ポンプ室は次々に機能を停止していき、13時5分にはポンプ室への送電が打ち切られた[452]。ポンプ室に詰めていた職員は全員が脱出に成功した[452]。排水機能を失った関門トンネルは急速に水没していき、上り線1,880メートル、下り線1,760メートルが水没して推定浸水量は約9万立方メートルに達した[452]。16時すぎに浸水が止まった時点で確認したところ、トンネル全長の約3分の2が天井まで浸水しており、関門トンネルによる本州と九州の連絡は切断されてしまった[453]。
関門間の輸送が途絶したため、下関駅と門司港駅を結んで運航されていた関門連絡船の豊山丸、長水丸、下関丸を使って旅客・小荷物・新聞類の代替輸送にあたるとともに、支援として大島航路から七浦丸を投入した[454]。貨物輸送については国鉄所有の船舶のほかに、汽船や漁船、機帆船なども借り上げて代行輸送を行った[455]。かつて下関と小森江の桟橋の間で貨車航送を行っていたが、下関の岸壁は関釜連絡船の岸壁延長のために埋め立てられており、小森江の可動橋も取り外して転用したため、急に再開できる状況ではなかった[455]。しかし、国鉄がかつて運航していた関門丸は宇高連絡船での運用が終了したあと、民間会社に払い下げられて関門海峡でカーフェリーとして運用されており、結果的に貨車からトラックに積み替えた貨物の代行輸送に役に立つことになった[456][455]。
トンネルに浸水するとすぐに、国鉄西部総支配人を長とする復旧対策本部が設置され、各地から応援の人員と機材を手配して排水復旧作業に取りかかった[457]。まず単線での運転再開を1日も早く実現することにし、下り線を早期に開通させる方針で作業に取りかかった[457]。試掘坑道に対しては立坑にシンキングポンプ(吊り下げ式ポンプ)を各4台、上り線・下り線の各本線トンネルに対しては下関側は坑口から、門司側は小森江の立坑からパイプを伸ばして、水面付近にタービンポンプ(ディフューザポンプ)を各2台配置して排水を行った[458]。小森江の試掘立坑に運び込んだ最初のポンプは7月1日から稼働し始め、以降各地からポンプが届けられ、幡生の鉄道工場と現地で整備して据えつけられ、稼働し始めて行った[459]。1日約1,300立方メートルから1,700立方メートルに及ぶ湧水があったため、当初はトンネル内の水量を減少させるには至らなかったが、多数のポンプが順調に稼働し始めるとようやく減水していった[460]。本線トンネルは20パーミル程度の勾配であり、1メートル水位が下がると水面は50メートルも後退することになるため、受電装置・ポンプ・サクションホース[注 56]を台車に載せて前進させ、後ろにパイプを順次つなぐ作業をしていった[462]。このパイプをつなぐ作業にかなりの時間を要したため、結果的に運転時間は1日平均6 - 10時間程度であった[460]。これに対して立坑から吊り下げたポンプは1日20 - 24時間程度運転することができた[459]。また輸送用のモーターカーの排気により一酸化炭素が発生し、頭痛を訴える作業員も出たため、モーターカーの使用を制限したり換気装置を設置したりといった対応に追われた[460]。
最盛期には1,000人を超える作業員が1日3交代制で作業に従事した[457]。下り線は7月10日に、上り線は翌11日に、トンネルの天井部分がすべて見えてくる程度に減水し[463]、下り線は12日12時に一応の排水が完了した[460]。しかし、残りの水は試掘坑道へ排除できるものと考えていたが、試掘坑道へ通じる排水管が詰まっていたため、トンネル内の湧水により却って増水する状況であった[464]。そこで、排水管の閉塞を取り除くと流れ出した水で吸い込まれてしまう危険があるのを顧みず、下関工事事務所の職員が汚水に潜って手探りで排水管を探り当て、詰まっていたごみを取り除いて、無事に排水を完了させることに成功した[464]。中央部に溜まった泥や土が約60センチメートル程度あり、ポンプ室に備えられた試掘坑道への連絡パイプを通じてできるだけ試掘坑道に排除するとともに、両側の坑口からトロッコを使って搬出し、7月13日19時に試運転列車を通過させ、7月14日0時35分門司発の貨物列車第678列車から単線での運転を17日ぶりに再開した[460][465]。続いて上り線では7月13日20時に排水を完了し、電気信号関係を完全に復旧させて7月17日に開通させ、一旦下り線を休止して上り線に運行を移したうえで下り線の完全整備を実施し、7月19日8時31分に複線での完全復旧を完了した[460]。
本線のトンネルが復旧した時点ではまだ試掘坑道の排水は終わっておらず、さらに本線トンネルに設置のポンプが未復旧であったため、トンネル内の漏水や線路・電線の洗浄に使った水が流れ込んで、むしろ水位が増える方向であった[466]。表面の水をポンプで吸い上げてはドラム缶にヘドロを詰めて立坑から運び上げるという作業を昼夜三交代で継続し、ようやく8月20日に試掘坑道も復旧が完了した[467]。
国鉄は列車の運行を優先し、11時20分に最後の列車が通過するまで門司方の線路上に土俵による防水壁を築くことができずにおり[452]、これがのちに衆議院運輸委員会で問題にされることになった[455]。一方、第327列車の機関士、トンネルの浸水を発見した保線区員、現場で機関士と運転指令の間の連絡にあたった公安職員2名の計4名が8月31日に「緊密な連絡と臨機の処置により列車の重大事故を未然に防止した」として長崎惣之助日本国有鉄道総裁から国鉄総裁表彰を受け、さらに機関士と保線区員の2名は10月20日に「本年六月の風水害に際し生命の危険を顧みず公務遂行に当たりその功労は特に顕著である」として吉田茂内閣総理大臣より総理大臣表彰を受けた[405]。またトンネル中央部の汚水に潜って排水管閉塞を解決した下関工事事務所職員は、2003年(平成15年)になって叙勲を受けている[468]。
水没事故の経験を生かし、門司方の防水壁はさらに1メートル高くされ、トンネル入口のポンプは従来の約2倍の能力に増強された[467]。浸水を防止するためにトンネル入口には鉄製の防水扉が取りつけられ、トンネル内のポンプも地上から操作ができる強力なポンプに取り替えられるなど、浸水対策が強化された[467]。また、毎年6月には総合的な水防訓練が実施されるようになった[467]。なお、この水没事故後の1961年(昭和36年)の変電所無人化に際して、運転電流と事故電流を高精度で弁別(区別)して送電を停止する故障選択継電器と、事故時に並列饋電[注 57]している隣接変電所の遮断器を同時に開放する連絡遮断装置が導入されたため、同様の事件が再度発生したとしても、遮断器が動作して停電することになり、第327列車のように落水箇所を強行突破することは不可能となっている[450]。
上り線トンネルの建設時に工事事務所長を務めていた星野茂樹は、水没事故時は民間企業の顧問となっていたが、トンネル開通から10年が経ってちょうどいい機会であるとして、門司鉄道管理局の根来幸次郎施設部長に連絡して、排水作業の傍らで水を流してトンネルの大掃除をさせた[470]。当時の吉田朝次郎所長は何事かと怒ったものの、関係者は「星野さんの命令」としてそのまま掃除を続行したという[470]。さらに根来施設部長は、トンネル再開後の最初の試運転列車の先頭に乗って、特級酒を全線に振りかけたという[471]。またこの水没事故は、関門トンネル開通10周年を記念して門司方坑口に「道通天地」(道は天地に通ず)という銘板を取りつけた直後であったため、「天と地がつながって空からもらい水をした」などと皮肉を言われることになってしまった[472]。
九州島内の交流電化
第二次世界大戦後は、石炭の節約の観点から国鉄の主要幹線の電化を推進する方針となった[473]。しかし連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の民間運輸局(CTS)は、戦災復興を優先するべきという理由で電化の推進に否定的な態度を取り、占領期には電化はあまり進捗しなかった[473]。1951年の主権回復の4年後の1955年(昭和30年)9月26日に発足した日本国有鉄道電化調査委員会では、早急に主要幹線3,300キロメートルの電化を推奨する報告書を11月29日に提出した[474]。これを受けて1957年(昭和32年)度からの第1次5か年計画では、第1次計画として1,665.8キロメートルの電化を推進する方針となり、この中で関門トンネルの両側にあたる山陽本線の西明石 - 幡生間、鹿児島本線の門司港 - 鳥栖間が取り上げられた[475]。
ちょうどこの時期、国鉄では交流電化の技術にめどをつけて採用を進める方針となっていた[476]。国鉄の交流電化調査委員会では、交流電化の経済性を検討し、電車運転および交直接続の費用を考慮しなければ、常に交流電化が有利であると結論づけた[477]。しかし、この検討は直流電化の技術の進歩を適切に考慮しておらず、また交流電化に必要となる建築限界の拡大に要する費用も評価されていないという問題があり、これに加えてすでに直流電化されている東海道本線の延長となる山陽本線では交直接続の費用が交流電化の経済性を帳消しにしてしまうことから、交直接続をどこで行うのがもっとも経済的かということが検討された[477]。
この検討の際に大きなポイントになったのが関門トンネルの建築限界の問題で、トンネルの断面は本来は設計上5,100ミリメートルの高さがあるはずであり、交流電化には大きな問題はないと考えられていたが、1957年(昭和32年)12月に実測してみたところ、戦時中の材料不足による工事方法変更の結果として短区間ではあるものの4,970ミリメートルの高さとなっている場所があることが判明した[478]。この高さでも、特別な架線吊架方式を採用し絶縁方法を工夫することで交流電化も不可能ではないとされたが、将来的に大きな貨物の輸送に支障をきたすおそれがあった[478]。これに加えて、関門トンネル内は海水の漏洩が激しく、直流電化においても絶縁の保持に苦労している現状があり、交流2万ボルトに変更すればよりいっそう保守が困難になるものとされた[479]。
また交直接続箇所においては、地上切替方式を採用しないのであれば、高価な交直両用の機関車を必要とする[480]。交直接続箇所から西側をすべて交直両用機関車で牽引すれば、機関車の総所要両数は減るが、高価な交直両用機関車の所要数が増加する[480]。一方、交直両用機関車による牽引を交直接続箇所をまたぐ区間に限定して、西側では交流専用の電気機関車を使うものとすれば、交直両用機関車の所要数は減るが機関車の総所要両数が増加となる[480]。しかし、関門トンネルは急勾配の長大トンネル区間であり、もともと高速運転をしないうえに、電動機に電流を流して走る時間も短く、加えてトンネル内は一定の気温であることから発熱の観点で有利になる[480]。さらに短区間であることから蒸気暖房用の蒸気発生装置を搭載する必要もないとして、この区間に限れば交直両用の機関車としては安価な専用機関車を設計できるものとされた[480]。こうした点を考慮し、最終的に山陽本線を直流、鹿児島本線を交流で電化し、門司駅構内を交直接続点とする方式が決定された[477][479]。
こうして電化が推進されることになった。通常は既存の電化区間をそのまま延長していくが、そうなると九州への電化の到達はかなり先のことになり、日本有数の重工業地帯で当時輸送量が急増していた北九州地区の輸送需要に応えることができないという問題があった[481]。そこで飛び地となるが、山陽本線の小郡以西と九州島内を先に電化する方針となった[481]。
こうして1961年(昭和36年)6月1日に山陽本線小郡(のちの新山口駅) - 下関間と、鹿児島本線門司港 - 久留米間の電化が完成した[482]。このために交直両用の421系電車が製作・配置され、関門トンネルを通過して山陽本線と鹿児島本線を直通する運転を開始した[483]。北九州の通勤輸送対策のためにこの電化開業では、交直両用電車を投入して一部の客車列車を置き換えあるいは増発することが先行することになり、この時点では客車や貨車を牽引する機関車については従来のEF10形が引き続き用いられた[484]。EF10形は直流専用であるため、門司駅構内の内側の関門トンネルから列車が出入りする線路から門司操車場に至る区間はこの時点では暫定的に直流電化のまま残され、外側の鹿児島本線の線路が交流電化され、交直デッドセクションは暫定のものが小倉側の山陽本線と鹿児島本線の分岐部に設置された[485]。
関門トンネル区間用の交直流電気機関車としては、EF30形電気機関車が開発された[486]。1961年(昭和36年)8月から10月にかけて、量産形のEF30形が門司に配置され[487]、8月から順次営業運転を開始し、10月1日から本格的に運用を開始した[486][488]。代わって、EF10形は関門間の運用から外れ、直流電化区間へ順次転出していった[487]。これにより、交直デッドセクションを本来の位置に移設する工事が行われ、1962年(昭和37年)3月2日から門司駅構内は全面的に交流電化となった[489]。本来の交直デッドセクションの位置でも、下り線の旅客線と上り線の旅客・貨物線はともに関門トンネル出口付近のシーサスクロスポイント(両渡り線)付近にあるが、下り線の貨物線は上下ホームの間をさらに進んだ小倉側に設置されており、これはトンネル出口の上り勾配で列車が停止してしまった場合に、再発進しても十分加速できないままデッドセクションのために惰行しなければならなくなる危険を回避するためだとされている[487]。
1964年(昭和39年)10月1日には、山陽本線の全線電化が完成した[490]。このとき、東海道新幹線も同時に開業したことから、在来線の東海道本線での運用を終えた151系電車が山陽本線での運用になり、特急「はと」「つばめ」として九州まで直通で乗り入れることになった[491]。しかし151系は直流専用であったため、電源車としてサヤ420形を連結したうえで、九州島内では電気機関車で牽引されて走ることになった[491]。この運行は1年で終わり、交直両用の特急電車として481系電車が1965年(昭和40年)10月1日から使用されるようになった[491]。同時に急行用の475系電車も投入されて、関門トンネルを往来するようになった[491]。
並行路線の開通とその後
1958年(昭和33年)3月9日には、国道2号の関門トンネルが開通した[492]。この国道トンネルは、鉄道トンネルに1年遅れて着工したものであったが、戦後しばらくの間工事が中断していたものであった[406]。鉄道のトンネル関係者は、鉄道トンネルもあと1年着工が遅れていたら、戦争の混乱に巻き込まれて戦後まで工事がダラダラと伸びていたかもしれないとしている[406]。道路トンネルは、鉄道のトンネルに比べて急勾配を許容できることから、海峡の幅がもっとも狭い早鞆の瀬戸を通過している[13]。このトンネルの開通により需要が減少した関門連絡船は、1964年(昭和39年)10月31日限りで廃止となった[493]。
続いて1973年(昭和48年)11月14日には高速道路の関門橋が開通した[494]。この橋も、最狭部にかけるのが最適であるとして早鞆の瀬戸の通過となった[13]。そして、1975年(昭和50年)3月10日には山陽新幹線が博多駅まで開通し、新関門トンネルが供用を開始した[495]。新幹線についても、高速走行のために曲線半径を大きくする必要から、早鞆の瀬戸を通過することになった[13]。こうして関門海峡を横断する交通路は合計4本となっている[496]。
1972年(昭和47年)11月6日に発生した北陸トンネル火災事故により、長大トンネルの火災対策が実施されることになった。関門トンネルは対策を実施する長大トンネルの条件には含まれていなかったが、海底トンネルであり、かつ通過列車本数が多いという条件から同様の対策が実施されることになった[497]。このために消火設備や避難誘導の設備の準備、電話機の設置などの諸対策が実施された[497]。このときに設置された消火器は、塩分を含む漏水があり湿度が高いという条件のため、保守には手間がかかることになった[497]。
1973年(昭和48年)には、貨物列車の増発用として新たに国鉄EF81形電気機関車が2両配置された[498]。先に配置されていたEF30形が関門トンネル区間専用の設計であったのに対して[486]、EF81形は国鉄在来線電化区間の3電源方式にすべて対応する標準形の交直流両用電気機関車であり[499]、関門トンネル区間に投入されたのは塩害対策等の改良を実施した300番台となった[498]。この機関車は、1974年(昭和49年)に寝台特急増発用としてさらに2両が増備された[498]。ただし、これらの4両は貨物列車の牽引に必要な重連総括制御装置が搭載されておらず、旅客列車の牽引に限定して使用されていた[498]。
しかしその後、余剰となる機関車が発生し、1978年(昭和53年)にはEF81形が2両常磐線へと転出したが、1984年(昭和59年)と1985年(昭和60年)に1両ずつ門司機関区へ戻された[500]。この時期になるとEF30形が老朽化してきたことから、1978年(昭和53年)にまず試作車の1両が廃車となり、1984年(昭和59年)からは量産車の廃車が始まった[501]。そして、EF81形の基本形から改造して製作された400番台14両が1986年度(昭和61年度)に投入され[498][500]、1987年(昭和62年)3月末でEF30形の運用が終了した[502]。
1987年(昭和62年)4月1日に国鉄分割民営化が実施されると、関門トンネルは九州旅客鉄道(JR九州)が承継した[503]。これは、関門トンネルは九州の人が本州に来るときに使うものだから、九州が担当すべきとの理由で決められたという[503]。下関駅を管理する西日本旅客鉄道(JR西日本)との境界は下関駅構内の九州側の外れにある[503]。
2005年(平成17年)10月1日のダイヤ改正では、JR西日本所有の気動車による関門トンネル通過運用がなくなり、気動車の関門トンネル通過が定期では全廃となった[504]。同時に、JR九州からの山陽本線方面への直通列車もなくなり、九州からの列車は下関駅で折り返しとなった[504]。
2007年(平成19年)3月18日ダイヤ改正からEH500形が関門地区に投入され、関門トンネルを抜ける貨物列車の牽引を担当するようになった[450]。同時に1,300トン貨物列車の北九州貨物ターミナル駅までの乗り入れが開始された[450]。2009年(平成21年)3月14日のダイヤ改正により、寝台特急「富士」「はやぶさ」が廃止となり、関門トンネルを通過する旅客列車は415系による折り返し運転の電車のみとなった[505]。2011年(平成23年)3月12日ダイヤ改正で、EF81形牽引の貨物列車が臨時1往復のみとなり、またEH500形が福岡貨物ターミナル駅まで1,300トン貨物列車を牽引しての直通運転を開始した[506]。翌2012年(平成24年)3月17日ダイヤ改正で、EF81形による臨時1往復の設定も無くなり、関門トンネルの貨物列車は完全にEH500形が牽引するようになった[507]。
2020年(令和2年)11月に、JR九州門司保線区は関門トンネル開業77周年で自社建物内に整備してきた「関門トンネル記念館」を公開した(観覧は要予約)[508]。
注釈
- ^ 「土かぶり」(どかぶり)ともいい、トンネルや管路の上の土の深さを示す。これが深いと工事費が増大し、浅ければトンネルや管路の構造が不安定になる恐れがある[6][7]。
- ^ トンネル工事において坑道の先端部のこと[51]。
- ^ 含水軟弱層のように湧水のある地盤にトンネルを掘削する場合、切羽[注 2]の近くに隔壁を設け圧縮空気を送入して、湧水圧と等しくなるまで空気圧を上げ掘削する「圧気工法」という方法がある[52]。
- ^ 内閣の各省の会議。またはその議決事項[54]。
- ^ 地震探査、弾性波探査ともいう。非破壊検査方法のひとつで、地下で伝わる弾性波が、物性が異なる境界面で屈折や反射が起こる現象を利用している。具体的には、地表付近や海面付近の水中で人工的な衝撃波を起こして、反射波の到達時間を各所で計測して地下の地層構造を調査する[68]。
- ^ 輝緑凝灰岩(きろくぎょうがいがん)は玄武岩質(苦鉄質)の火山噴出物(古い時代の玄武岩、塩基性火成岩あるいは凝灰岩)が多少変質したもの。 古い時代の地層でよく見られ、シャールスタインともよばれる[69]。
- ^ 黒雲母と石英を主成分とする結晶片岩。泥質の岩石が地中深くで変成作用を受けて生成したもので、雲母片が一定方向に配列しているため、はがれやすい[71]。
- ^ 貫入(かんにゅう)とは、地下深所のマグマが、岩石の割目や、地層中に押し入って冷え固まること[72]。
- ^ 第三紀層は、日本列島のかなりの部分が海の底だった新生代の第三紀に堆積した地層のこと。川が運んだ泥や砂、火山灰などが海底に堆積して、積礫岩、砂岩、泥岩の互層でできている。半固結堆積岩に分類され、もろくて粘土化しやすい性質がある[76]。
- ^ トンネル工事における被覆とは、掘削後の坑道内の土砂や岩石面の崩落や出水を防ぐために、コンクリートなどの材料で覆い被せて固めることで、その工事を覆工という。坑道の外殻構造を兼ねる場合もある。
- ^ 普通工法は、火薬で爆破し、あるいは掘削してトンネルを掘って、天井や壁面を仮の支柱で支えて、その後恒久的なコンクリートの覆工を行う工法である[78]。
- ^ 圧気工法は、トンネルや立坑に圧縮空気を送り込んで、その圧力で湧水を排除しながら掘削を進める工法である[79]。
- ^ 電気運転は、路線を電化して外部から電力を供給して列車を運転すること、煤煙や排気ガスを出さないという利点がある[81]。
- ^ 地表とトンネル(坑道)を結ぶために垂直に設けた坑道[85]。
- ^ 開削工法は、地上から地面を掘削して、その中にトンネルを構築してから上部を埋め戻す工法である[86]。
- ^ 隅田川河口の霊岩島に設けた量水標で観測した平均潮位のこと[90]。
- ^ 馬蹄形断面は、トンネルの断面形状が内面高さと有効幅が同じ逆U形の断面よりも下部が狭まっている、馬の蹄鉄形の断面形状で、側面もアーチ状構造のため外圧を受ける構造強度効率が高い。「普通工法区間の断面図」を参照のこと。
- ^ 起拱線(ききょうせん)はスプリングラインとも呼び、トンネル断面の上半部のアーチの始まる線を指す[92]。
- ^ 雇い入れた技術者は、工事誌『関門隧道』p.25ではノルウェー人であるとしているが、『関門とんねる物語』p.32ではスウェーデン人としている。『海底死闘六年 関門トンネル』pp.24 - 25では、スウェーデン人にボーリング技術を習ったのは丹那トンネルの工事の時であるとしている。
- ^ 掘削の際に使用した仮設構造物や機材を回収せずにそのまま埋めてしまうこと[134]。
- ^ ここでいう尾部とは、岩盤を削る切削面とは反対側の筒の部分のこと。
- ^ 盛り土や堆積土に対する対義語。もとからある自然の地盤のこと[146]。
- ^ 特別高圧とは、7000ボルトを超える高電圧のことで、送電線は発電所から変電所へ電力を送る電線路のことである。電気設備技術基準で定義されている。
- ^ 工事誌『関門隧道』p.181では、1937年(昭和12年)10月に竣功としているが、p.622では1938年(昭和13年)6月5日に竣功としている。p.184では、立坑底部まで1937年9月30日に掘削完了とする一方、立坑底部のポンプ室の工事などは1938年7月までかかったと記載されている。
- ^ 「個」は流水量の単位で、1秒間に1立方尺(約27.83リットル)に当たる[205]。
- ^ 下り線下関方立坑の深さについて、工事誌『関門隧道』p.207では52メートルとしているが、p.178では試掘立坑との位置関係を示す図を掲載した上で深さ39.5メートルとしている。「関門トンネルの立坑を見る(1)」でも深さ約40メートルとしている。
- ^ トンネル全体に先立って掘削する導坑のうち、トンネル断面の下部中央付近に設けるもの[214]。
- ^ 鋼矢板、シートパイルともいう。土木建築材料のひとつで、長い板状の折り曲げ鋼板を、地面対して連続して垂直に深く打ち込んで、土留め壁あるいは止水壁とし、掘削工事を行ったときの土砂崩壊を防ぐ目的で使用する[232]。
- ^ 下り線門司方立坑は、その中心が511K870Mにあり[229]、立坑外形の長さ方向は11メートルあるので[242]、立坑の終点方のキロ程が511K875M50となる[243]。「関門トンネル区間別採用工法」に記したように立坑中心で区間を区切るなら、圧気工法の区間の延長は5メートル50が加算されて146メートル50となる。
- ^ 水の勢いを弱めるために水中に投入される石[252]。
- ^ 線形管理上、シールドマシンによる掘進腺が設計計画腺から外れてしまうことを蛇行といい、掘削計画の見直しをかけてシールドマシンを蛇行修正することで許容できる垂直・水平偏差の限界値が蛇行限界となる[270]。
- ^ 粘土などの軟弱な地層ではなく、岩石や土砂が堅く締まって掘削時に抵抗があるような密度の高い地層ということ。
- ^ 圧気工法でトンネルを建設する際に、坑内の圧縮空気が地山を破壊せずに漏れること[277]。
- ^ 捨て粘土は、地ならしのために粘土を充てる工事のこと言い表すいわゆる業界用語で、コンクリートを用いた類似用語に捨てコンがある。ここでの場合は、掘削推進先の土被り高さを確保する目的で、船体が引きずられて出来てしまった海底の溝に向かって大量の粘土を播いて被覆する工事のこと。
- ^ 粘土などが混ざらず、貝類の死骸が堆積してほぼ貝殻のみで出来上がった地層で、純貝層ともいう。「貝層」を参照。
- ^ 貫通発破は、トンネルの坑道を貫通させるために行う発破のこと。発破とは、坑道掘進の切羽面に数本のダイナマイトを特殊な配置で仕掛けて爆薬を点火し、岩盤を吹き飛ばして破壊すること[290]。
- ^ 現在の北九州貨物ターミナル駅の位置にかつて所在した、九州の貨物輸送の玄関口を担う、日本国有鉄道時代の貨物列車の操車場。
- ^ 停車場間の単線区間を複数の閉塞区間として区分し、各閉塞区間の入り口に列車の進入を許可する閉塞信号機を設けて、列車が通過することによって自動的に線路の閉塞と信号の制御を行う方式。「閉塞 (鉄道)#自動閉塞式」を参照。
- ^ 戦時の海上輸送力の減少に対応して、鉄道輸送力の増強を図るための体制、1942年(昭和17年)10月6日閣議決定[316]。
- ^ アジア諸国の勢いを盛んにすること[317]。
- ^ この額は、下り線トンネルと試掘坑道の工費の合計である[323]
- ^ コンクリート混和場は、建設現場内で砂利・砂・セメント・水・混和剤を混合攪拌(混和)して生コンクリートを製造する現場練りコンクリート製造所のこと。
- ^ 頂設導坑式(ちょうせつどうこうしき)は、施工断面分割方式による導坑(どうこう)先進工法の1種で、本坑の全断面積を一度に掘削するのではなく、本抗掘削前に先行する導坑として、本抗頂部を小断面で掘り進めた後、側面や底面へ掘り広げるトンネルの掘削工法である。日本で発達した掘削工法であることから、別名で日本式ともよばれる[368][369]。
- ^ 1か所に多くの作業員が入って同時進行で様々な作業が行われており、作業場内が大変混み合っているようす。
- ^ 便利な交通手段が提供されることによって、需要そのものが増大すること。交通経済学を参照。
- ^ 輸送しきれずに溜まっている貨物のこと[400]。
- ^ 重量を軽減するために、内面をくりぬいた形状としたセグメント[410]。
- ^ 東山線の池下駅 - 覚王山駅間にある1963年完成のトンネル[412]。
- ^ アルミニウムの耐食性を損なうことなく、マグネシウム、ケイ素などの合金元素を添加して、強度を改善した合金[423]。
- ^ 平面操車場は、平面で入換え機関車による突き放し作業によって貨車の仕分けを行う操車場。貨車を連結器を切って分解した分解回数だけ、繰り返し機関車で推進運転により引上線に貨車を据え付けて仕分けをする。分解に長時間を要するが、建設費が安い[425]。
- ^ ハンプ式操車場は、押上線と仕分け線との間に設けたハンプとよばれる高さ2 - 5メートルの小山から、自然転走によって仕分けを行う操車場。押上線に据え付けた貨車列を入換え機関車によってハンプに押し上げ、貨車の連結器を切って、貨車をハンプ上から仕分け線へ自然転走させる。平面式よりも仕分け作業の所要時分が短く能率的であることから、大規模な操車場で採用されている[425]。
- ^ 架空送電線は、発電所から変電所へ電力を送るため、送電鉄塔のアームに高電圧の電線(導体)を碍子で吊り下げて、空中に架線する方式の電線路のこと[433]。
- ^ ヒュー・ケイシーは、『関門とんねる物語』p.205では中将とされているが、バーチャル国際典拠ファイルによると最終階級はMajor General(少将)である[437]。
- ^ 列車走行によってレールに流れる電流
- ^ 第327列車の下関発時刻は、当時の新聞では定刻から3分遅れの10時57分としている一方、1972年に国鉄九州総局が発行したリーフレットでは11時24分としている。しかし11時24分発では、トンネル通過中に濁流に遭遇してしまい、つじつまが合わないと指摘されている[446]。
- ^ 水や空気を吸い込むためのホース[461]。
- ^ 同一の場所(列車)に対して複数の変電所から同時に送電すること[469]。
- ^ 空気中に浮遊している、土砂などに由来する非常にきめ細かな塵(ちり)や埃(ほこり)のこと[523]。
- ^ シリコンオイルコンパウンドともいい、シリコンオイルを基油にしてシリカ微粉末などを配合したグリース状のもので、電気絶縁性、耐アーク性に優れ、塩分や塵埃付着などによる碍子の絶縁低下を防ぐため、碍子表面のコーティングに塗布するものがある[524]。
- ^ コンクリート構造物の状態が、建設初期の状態から劣化、損傷などコンクリート表面に異常が発生した状態を調べる調査[527]。
- ^ テストハンマーや打診棒で、コンクリート構造物を直接叩いてみたときの音質で、コンクリート表面近傍の浮き、剥離、空洞の有無などの異常を検知する調査方法[528]。
- ^ トンネル掘削後に、最終的にトンネル内部を覆うために現場打ち(覆工)されたコンクリートのこと[529]。
- ^ コンクリートの各種試験のために、コアと呼ばれる試料を採取すること[530]。
- ^ スリ板はパンタグラフ(集電装置)において架線と直接摺動(しゅうどう)して電力を受け取る部分[537]。スリ板受けはそれを支えている部材。
- ^ 引張力(ひっぱりりょく)は、一般的な解釈では物を引っ張る力のこと。ただし、物理学では物体を垂直方向に上下で引っ張りあうときに働く垂直応力のこと[542]。
- ^ 列車の耐寒装備には耐寒ブレーキ・半自動ドアなどがあり、耐雪装備には台車付近のスカート(排雪器)につくスノープラウ(雪かき)、耐雪ブレーキなどがある[543]。
- ^ 避難誘導のためにトンネル内の位置を示した標識。
- ^ トンネル内の湧水に含まれる汚物やごみを沈殿させて除去し、上澄みの水を放流するための設備[497]。
- ^ 77歳のお祝い。
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