下関丸 (初代)
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下関丸 | |
---|---|
基本情報 | |
船種 | 鉄道連絡船 |
クラス | 大瀬戸丸級鉄道連絡船 |
船籍 |
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所有者 |
山陽鉄道 逓信省鉄道局 鉄道院 鉄道省 運輸通信省 運輸省鉄道総局 日本国有鉄道 |
運用者 |
![]() 逓信省鉄道局 鉄道院 鉄道省 運輸通信省 運輸省鉄道総局 日本国有鉄道 |
建造所 | 三菱合資会社三菱造船所[1] |
母港 |
下関港/山口県 広島港/広島県 |
姉妹船 | 大瀬戸丸 |
信号符字 | JKVB[2] |
IMO番号 | 6833(※船舶番号)[2] |
改名 | 下関丸→七浦丸[2] |
経歴 | |
起工 | 1900年9月2日[1] |
進水 | 1901年2月16日[1] |
竣工 | 1901年5月14日[1] |
就航 | 1901年5月27日 |
運航終了 | 1955年8月25日 |
要目 (新造時) | |
総トン数 | 188.8トン |
載貨重量 | 28トン[2] |
全長 | 105.0フィート (32.00 m) |
垂線間長 | 100フィート (30.48 m)[2] |
幅 | 27.0フィート (8.23 m) |
型幅 | 20フィート (6.10 m)[2] |
型深さ | 8フィート6インチ (2.6 m)[2] |
主機関 | 三連成レシプロ機関 2基[2] |
推進器 | スクリュープロペラ 2基 |
出力 | 145IHP[2] |
航海速力 | 8.018ノット[2] |
旅客定員 | 335名 |
下関丸(しものせきまる)は、山陽鉄道→鉄道院→日本国有鉄道関門航路に在籍していた鉄道連絡船。同型船に大瀬戸丸がある。
関門航路の下関丸の名の船舶は2隻あり、ここでは下関丸(初代)について記述する。
概要
関門航路は1898年(明治31年)9月1日、山陽鉄道子会社の山陽汽船により下関港~門司港間の定期航路の運航が開始される。1901年(明治34年)5月27日 山陽本線下関駅開業に合わせて新造された船舶が、下関丸と大瀬戸丸である。
三菱合資会社三菱造船所の136番船として建造され[1][2]、1900年(明治33年)9月2日に起工[1]。1901年(明治34年)2月16日に進水し[1]、同年5月14日に竣工[1]。5月27日、関門航路に就航した。
1920年(大正9年)12月27日、下関丸は特別席設置などの改造を経て宮島航路に転属する[2]。この際七浦丸に船名を変更。
戦後はGHQの日本商船管理局(en:Shipping Control Authority for the Japanese Merchant Marine, SCAJAP)によりSCAJAP-N058の管理番号が付与された[2]。
1946年(昭和21年)4月24日、大島航路が山口県県営から国鉄に移管されると、七浦丸は大島航路に転属したが、1947年(昭和22年)12月に昭和天皇が宮島に行幸(昭和天皇の戦後巡幸)した際には、お召船に充てられた[3]。
その後、1954年(昭和29年)7月、大島航路で自動車航送が開始されると、自動車積載能力が無いため、再び宮島航路に転属となる。
1955年(昭和30年)8月25日、七浦丸は運航を終了し引退。1958年(昭和33年)に売却されたという。
脚注
参考文献
- 『創業百年の長崎造船所』三菱造船、1957年
- 下関丸_(初代)のページへのリンク