下関丸 (2代)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/08 13:57 UTC 版)
下関丸 | |
---|---|
基本情報 | |
船種 | 鉄道連絡船 |
船籍 | ![]() ![]() |
所有者 | 鉄道省 運輸通信省 運輸省鉄道総局 日本国有鉄道 |
運用者 | ![]() 運輸通信省 運輸省鉄道総局 日本国有鉄道 |
建造所 | 藤永田造船所 |
母港 | 東京港/東京都 |
船舶番号 | 30924[1] |
信号符字 | SWLH[1] |
経歴 | |
起工 | 1924年11月12日[1] |
進水 | 1925年5月13日[1] |
竣工 | 1925年7月17日 |
就航 | 1925年8月1日 |
運航終了 | 1961年6月15日 |
要目 (新造時) | |
総トン数 | 527.8トン |
全長 | 132.0フィート (40.23 m) |
垂線間長 | 125フィート (38.10 m)[1] |
幅 | 30.0フィート (9.14 m) |
型深さ | 12.0フィート (3.7 m)[1] |
主機関 | 二連成レシプロ機関 2基[1] |
推進器 | スクリュープロペラ 2軸 |
出力 | 512IHP[1] |
航海速力 | 10.13ノット[1] |
旅客定員 | 996名 |
下関丸(しものせきまる)は、鉄道省→日本国有鉄道関門航路に在籍した鉄道連絡船。
関門航路の下関丸の名の船舶は2隻ある。ここでは下関丸(2代目)について記述する。
概要
関門航路の旅客輸送は、門司丸・長水丸・豊山丸の3隻の客船で運航されていた。旅客の増加により、輸送力の増加のために大型の新造船が建造された。これが下関丸である。
下関丸は1924年(大正13年)11月12日に藤永田造船所で起工し[1]、1925年(大正14年)5月13日に進水[1]、同年7月17日に竣工した。竣工後は同年8月1日より関門航路に就航する。長水丸・豊山丸より大型化され、乗客定員は約1,000名である。これ以降、関門航路には新造船は導入されておらず、関門航路の最後の新造船となった。
長水丸・豊山丸からの改良点として、遊歩甲板と上部の端艇甲板を結ぶ階段を設置した。端艇甲板には救命いかだを置き、非常の際における脱出を容易化し、安全性を高めた。
太平洋戦争中、米軍の機雷投下により危険となった関釜連絡船に代わって博多 - 釜山間に博釜航路が開設された際、博多港に転籍し、陸上と連絡船の間の旅客送迎用に使用された。しかし、1945年(昭和20年)6月12日に触雷し沈没した。
戦後、1948年(昭和23年)3月に引き揚げられて復旧し、関門航路に戻っており、GHQの日本商船管理局(en:Shipping Control Authority for the Japanese Merchant Marine, SCAJAP)によりSCAJAP-S235の管理番号が付与された[1]。
1958年(昭和33年)に関門トンネルが開通し、ここを通るバスへの旅客移行が進んだこともあり、関門連絡船の利用者は減少した。1961年(昭和36年)6月15日のダイヤ改正による減便で余剰となり運航終了し、翌1962年(昭和37年)3月31日付けで豊山丸とともに売却された。関門航路の廃止は1964年(昭和39年)11月1日のことである。
脚注
参考文献
- 下関丸_(2代)のページへのリンク