蜂須賀氏 経歴

蜂須賀氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/19 13:53 UTC 版)

経歴

蜂須賀家政銅像/徳島市

封建主義時代

美濃国に隣接する尾張国海東郡蜂須賀郷(愛知県あま市蜂須賀)を領した国人で、川並衆であったともいう。正勝の曾祖父・正永の代までは尾張守護斯波氏に仕えていたが、斯波氏が衰えたため、父の正利の代には美濃国の斎藤氏に従った。

上述の正勝(小六)の代になって蜂須賀氏は織田氏の配下に属して、歴史の表舞台に登場する。正勝は織田氏の武将羽柴秀吉与力として活躍し、1581年(天正9年)に播磨国龍野に入封して大名となる[4]。その嫡子蜂須賀家政1585年(天正13年)に阿波国徳島に入封し、阿波国一国17万3000石(18万6000石とも)の大名となった[5]

秀吉の死後、関ヶ原の戦いにおいて、家政の子の蜂須賀至鎮が東軍に与したことにより所領の阿波国を安堵され、さらに大坂の陣後に淡路国一国を加増され、2ヶ国都合25万7000石を領した[4]

子孫は外様大名の大藩徳島藩の藩主として、代々従四位下の位階と阿波守淡路守の官職を世襲するとともに[6]、徳川将軍家から松平の名字[7]偏諱を受けた。1678年(延宝6年)蜂須賀綱矩の代に隆重に5万石を分与して支藩の富田藩を創設しているが、1725年(享保10年)に富田藩主蜂須賀正員が徳島藩宗家に襲封したため富田藩は宗家に還付された[8]。以降は領地の変動がないまま明治維新を迎えている[8]

なお8代蜂須賀宗鎮・9代蜂須賀至央高松松平家水戸徳川家御連枝)からの養子、10代蜂須賀重喜秋田佐竹家からの養子で、元々の蜂須賀氏の血筋ではなかった。また、13代藩主蜂須賀斉裕の実父は11代将軍徳川家斉であり、最終的には徳川将軍の血筋となった。

明治以降

蜂須賀正韶侯爵の嫡子蜂須賀正氏(1929年)。鳥類学者だった。

明治維新後、最後の徳島藩主蜂須賀茂韶は、1869年(明治2年)の版籍奉還で徳島藩知事に転じ、1871年(明治4年)の廃藩置県まで務めた[9]

1884年(明治17年)の華族令施行により茂韶は旧大藩知事(旧徳島藩は現米19万3173石であり、現米15万石以上と規定される大藩に該当[10])として侯爵に叙せられた[1]。また蜂須賀家の分家に蜂須賀重喜の次男喜翰を初代とする徳島藩の家老家(5000石)があり、大正4年(1915年)に同家の当主である蜂須賀喜信陸軍少将)が他の旧大藩では藩主と同姓の一門が男爵家に取り立てられたのに対し、徳島藩ではまだないことを指摘したうえで自家への叙爵を請願したが、不許可に終わっている[11]

1890年から北海道雨竜原野の5万町歩(1億5000万坪)で華族組合農場がつくられ、種畜、農機具、牧草種子などアメリカから輸入して北海道における大土地所有と直営農地の試みが始まったが、結局うまくいかず大農式直営から小作制経営となって分裂していき、その中で1893年(明治26年)以降、蜂須賀茂韶侯爵がその大半を掌握するようになった。茂韶は試行錯誤の末、1910年(明治43年)の米価の上昇安定化を機に水稲栽培と小作経営による農場へと転換させていった[12]

この農場経営によって蜂須賀侯爵家は大きな利益を上げるようになった。蜂須賀農場の小作戸数も1893年に13戸だったのが、1912年には785戸、1920年には949戸と増えており、蜂須賀家は不在地主として繁栄した[13]。蜂須賀侯爵家の雨竜村への影響力は絶大で、小作人たちから蜂須賀農場は「御農場」と呼ばれており「村の理事者も(蜂須賀)農場長の意に添わねばならず、又小学校職員の身分も保障されぬほどであった」という。まして場主である蜂須賀侯爵の来村となれば村をあげての大がかりな出迎えとなった[14]

しかし1920年以降には蜂須賀農場で小作争議が多発するようになり「ドロボー小六(「盗賊」だったと伝わる蜂須賀家の祖)をやっツケロ」といったスローガンが飛び交うようになった[15]。(正しくは蜂須賀侯爵家は徳川家の系統で、小六の一族ではない)1931年の争議を最後に以後は大きな争議は無くなり、1932年には凶作と洪水があったが、小作料は納められ、蜂須賀家と小作人の融和が進んでいった。もっともこの融和は戦争に伴う統制の時代が来たためだった[16]

大正から昭和期に18代当主となった蜂須賀正氏侯爵は世界的な鳥類学者として知られるが、一方でたびたび犯罪に絡んだために「華族の品位を落とす」とされ、1945年(昭和20年)7月に侯爵位を返上した。戦後は正氏の遺族の間で財産争いが起こり、そこに暴力団もからんだために過半の財産を消失し、蜂須賀氏は没落した。

2024年現在の当主は、正氏の娘の正子


注釈

  1. ^ 1945年(昭和20年)7月28日に爵位を返上[1]
  2. ^ 武蔵七党横山氏と同じ家紋の五割万字(いつつわりまんじ)を使用していることから、横山氏の系統ともいう。

出典

  1. ^ a b c 小田部雄次 2006, p. 323.
  2. ^ 岡田 1876.
  3. ^ 徳島城博物館(2021年10月3日)
  4. ^ a b 日本大百科全書(ニッポニカ)『蜂須賀氏』 - コトバンク
  5. ^ 新田完三 1984, p. 559.
  6. ^ 新田完三 1984, p. 559-563.
  7. ^ 村川 2000, p. [要ページ番号], §. 「蜂須賀氏への『松平氏下賜状』とそのライフサイクル」.
  8. ^ a b ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典『徳島藩』 - コトバンク
  9. ^ 新田完三 1984, p. 562-563.
  10. ^ 浅見雅男 1994, p. 110.
  11. ^ 松田敬之 2015, p. 574.
  12. ^ 小田部雄次 2006, p. 102/216.
  13. ^ 小田部雄次 2006, p. 217.
  14. ^ 小田部雄次 2006, p. 216-217.
  15. ^ 小田部雄次 2006, p. 217-218.
  16. ^ 小田部雄次 2006, p. 218.
  17. ^ 蜂須賀小六は盗賊じゃなかった?祖先の汚名を雪ごうとした子孫のエピソード Japaaan


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