機雷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/20 17:14 UTC 版)
機雷の作動
機雷は、敷設されるとまず時限時間の計時および自滅時間の計時を開始する。時限時間は敷設後すぐに起爆しないようにすることで、早期爆発で敷設艦への危害を防ぐとともに、機雷が周りの環境に対して安定する必要があるため設定されている。この後は機雷は待機状態となり目標を攻撃できるようになる。機雷が爆発などせずに自滅時間が経過すると機雷は自沈、自爆、電池の放電などによりその発火機能を失う。
21世紀初頭現在の多くの機雷は、磁気・音響・水圧といった複数のセンサーなどから得られる情報によって起爆条件が設定されている。「インテリジェント機雷」や「スマート機雷」と呼ばれる、目標の大きさや軍艦、もしくは商船であるかを識別し、最適な時期に目標を攻撃できる機雷も開発されている。
歴史
初期
近代的な機雷はロバート・フルトンにより作成されたといわれている係維式触角機雷といわれている[誰によって?]。
試験的にだが実戦で使われるようになったのはクリミア戦争で、1854年に参戦したイギリスがスウェーデンに参戦を確約させるためにオーランド諸島を攻撃した際に、ロシア帝国海軍バルチック艦隊がバルト海を封鎖するのに使用した。威力もさることながら当時はその正体が知れなかったことから心理的効果も大きかった。その影響は、スウェーデン側に参戦を躊躇わせるほどだった。なお、機雷の製造を請け負ったのは、サンクトペテルブルクで兵器製造を手がけていたスウェーデン人の発明家イマヌエル・ノーベル (アルフレッド・ノーベルの父)である。イマヌエルは一時大きな利益を得るが戦争終結と同時に注文が止まり、軍の支払いも延期されたため事業が逼迫し1859年に破産、スウェーデンに帰国した。
南北戦争では、圧倒的に優勢な北部海軍から港湾・水路を守るために南部連合側が積極的に機雷を使い、戦果を挙げた。なお、当時は機雷も外装水雷も「Torpedo」(現在では魚雷を意味する)と呼ばれていた。これはアメリカ独立戦争当時にデヴィッド・ブッシュネルが潜水艇と共に使った爆発物の呼称に由来する。
薩英戦争の際、桜島沖の沖小島と桜島の間に管制機雷が3基設置されており、これにイギリス艦船1隻が接近したが連絡ミスにより砲台が発砲、イギリス艦船は機雷原から離れてしまい使用に至らなかった。
日露戦争
日露戦争では公海上で本格的な機雷戦が行われるようになり、日本海軍は敷設した機雷により、ロシア海軍第1太平洋艦隊の旗艦「ペトロパヴロフスク」を撃沈、司令官のマカロフ提督が戦死した。一方、日本もロシア側の敷設した機雷により戦艦「八島」と「初瀬」を一度に失った。この戦争では、日本海軍は敷設した機雷で戦艦1艦をはじめロシアの艦艇を計6隻沈め、ロシア海軍は係維機雷6,000発を敷設して日本の戦艦2隻をはじめ計10隻を沈めた。特殊な使用例であるが、旅順攻囲戦の際、ロシア陸軍が余剰兵器であった機雷を陸上戦闘兵器として転用し、旅順要塞から敵に向かって投げ落として爆発させ、日本軍兵士に甚大な損害を与えている[3]。
第一次世界大戦・第二次世界大戦
第一次世界大戦では24万発、第二次世界大戦では70万発の機雷が使用された。重要な港湾や海峡の入り口はくまなく機雷で封鎖され、敵国への海上封鎖や通商破壊と、潜水艦や水陸両用作戦部隊の接近・侵入に対する防御(例:ガリポリの戦い)の両方で役割を果たし、イギリスの戦艦オーディシャスをはじめ多くの艦船が触雷によって沈没している。
第二次世界大戦においては、ナチス・ドイツ軍は、当初は駆逐艦を用いてイギリス沿岸に磁気機雷を敷設し、のちに空軍がテームズ川にまで敷設を行ない、戦争中期にはアメリカ本土沿岸部にUボートで機雷を敷設した。
イギリス軍は、地中海、大西洋でUボートを撃退する目的で機雷原を作り、Uボートの通商破壊を妨害した。後にはドイツ占領下のフランスにあったUボート基地に航空機で機雷を敷設して基地機能を阻害した。
アメリカ軍は第二次世界大戦での日本本土の攻撃において機雷を戦略目的に使用し、1945年3月27日から8月14日までの「飢餓作戦」では、のべ1,200機のB-29によって計1万発の沈底機雷を日本近海の海上交通路に投下した。米軍の狙い通りに港湾や海峡で船舶の被害が増大し、日本の海上物流は麻痺状態となった。日本側は飢餓作戦による機雷の掃海に戦後20年以上を費やす事態となった(関門海峡などには2023年時点においても残されている[4])。逆に日本海軍は、機雷作戦による積極的戦果をあまり求めなかったが、防御的に日本近海や海峡部には多数敷設され、連合軍の潜水艦を撃沈している。
日本における、主な民間船被害
冷戦期以降
機雷は戦後の朝鮮戦争[7]やベトナム戦争でも使用された。朝鮮戦争では浮流機雷が流され日本海を横断して津軽海峡に入り、青函連絡船が一時、夜間運航停止に追い込まれている[8]。ベトナム戦争では、アメリカ軍がハイフォン港の機雷封鎖を行っている。戦争以外で使われた例は多くはないが、1981年にアメリカがニカラグアの左翼政権転覆を狙って機雷封鎖を行った例がある。
イラン・イラク戦争においては、ペルシア湾にタンカー航行妨害用の機雷が敷設された。1987年からはアメリカ軍はペルシア湾において、民間タンカーの護衛作戦(アーネスト・ウィル作戦)を実施していたが、1988年4月14日にはフリゲート「サミュエル・B・ロバーツ」(FFG-58)が触雷している[9]。
湾岸戦争においてもイラク軍がクウェート沖合いに機雷を約1,200個敷設し、戦後に日本を含む多国籍部隊が掃海作業を行っている[10][11]。とりわけ、紅海やペルシア湾には機雷が数個敷設されただけで、原油価格が大きな影響を受け世界経済が激しく動揺するため、近時テロ目的の機雷が各国により非常に警戒されている。
2022年ロシアのウクライナ侵攻では両国が黒海西部にそれぞれ400発程度を敷設してルーマニアやブルガリア、トルコ沿岸にも漂流し、同年7月時点の報道で7隻が触雷して2隻が沈没、船員2人とオデーサ沖で遊泳中の男性が死亡した[12]。
脚注
- ^ a b c d e f g h トゥルーヴァー(2012) pp.74-76
- ^ Смирнов, Г.; Смирнов, В. (04 1989). “Мина – оружие и наступательное”. Жрунал «Моделист-конструктор» 2011年4月13日閲覧。.(ロシア語)
- ^ 高井三郎著『現代軍事用語』アリアドネ企画 2006年9月10日第1刷発行 ISBN 4384040954
- ^ “機雷や爆弾、関門海峡で続々と 戦後78年、今年見つかり始めた理由”. 朝日新聞DIGITAL (2023年12月14日). 2023年12月14日閲覧。
- ^ 日外アソシエーツ編集部 編『日本災害史事典 1868-2009』日外アソシエーツ、2010年9月27日、72頁。ISBN 9784816922749。
- ^ 「機雷?爆発 四人けが しゅんせつ船ふれる」『朝日新聞』1970年(昭和45年)5月10日朝刊12版15面
- ^ トゥルーヴァー(2012) P68-72
- ^ 占領軍・朝鮮戦争による運航規制『函館市史』(北海道函館市)[1]
- ^ Naval History and Heritage Command (Jan 17 13:39:51 EST 2020). “Samuel B. Roberts III (FFG-58)”. 2022年6月17日閲覧。
- ^ 第3節 湾岸危機後の諸問題への対応『1991年度外交青書』
- ^ 自衛隊ペルシャ湾派遣
- ^ 「ウクライナの穀物輸出合意 機雷潜む黒海 安全確保課題」『東京新聞』朝刊2022年7月15日(国際面)同日閲覧
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