東洲斎写楽 影響

東洲斎写楽

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/22 00:55 UTC 版)

影響

写楽の役者絵は歌舞妓堂艶鏡水府豊春歌川国政などに影響を与えている他、栄松斎長喜も写楽に似た画風の役者絵を制作している。

かつてイギリスで制作された人形特撮番組サンダーバードでは、トレーシー家のラウンジでジェフが座る背後上部に「二代目瀬川富三郎の大岸蔵人の妻やどり木」、向かって右壁面に「四代目岩井半四郎の乳人重の井」、更にデスク脇のサイドパネル部分には「中村勘蔵の馬子寝言の長蔵」が、それぞれ飾られている[42]

世界三大肖像画家の真偽

一般には写楽の評価に関して、ドイツの美術研究家ユリウス・クルトがその著書『Sharaku』のなかで、写楽のことをレンブラントベラスケスと並ぶ「世界三大肖像画家」と称賛し、これがきっかけで大正頃から日本でもその評価が高まった、との説明が流布している[注 18]

しかし、『Sharaku』の1910年刊行初版、1922年刊行改訂増補版、及び1994年刊行の日本語訳版『写楽 SHARAKU』のいずれにおいても、クルトによる序文並びに本文に「世界三大肖像画家」「レンブラント」「ベラスケス」に関する記述は見られない[注 19][注 20]。日本語訳版『写楽 SHARAKU』においては楢崎宗重の推薦文(帯)並びに翻訳者定村忠士による解題に「世界三大肖像画家」への言及はある[45]が、これは一般論として述べたものであり、クルト自身の文章を引用したものではない。

Sharaku』以外のクルトの著作や、明治大正頃の国外の浮世絵文献からも同趣旨の文言は見つかっておらず、後述のようにこの評価はエビデンスがない[注 21]

岸文和(同志社大学文学部)は2002年論文で次のように指摘している[47][注 22]

いったい何時、誰によって、この文言がクルトに帰せられるトポスになったかについては、現時点で、不明である。しかし、この文言がクルトのテクスト――初版/増補版とも――に見当たらないことは確実なのである。

『写楽 SHARAKU』の日本語訳に当たった定村忠士は、1995年に別の書籍で次のように指摘している[49]

実際に『写楽』にあたってみると、そんな言葉はどこにも書かれていない。クルトは『写楽』以外にも『日本木版画史』(一九二五~二九年)など浮世絵に関する論文を多数発表している。おそらくそのどこかで、こうした趣旨の言葉を書いたものが、いつのまにやら『写楽』のなかの言葉として語られるようになったと推察するが、少なくともこうしたまことしやかな紹介のしかたでは、どこまで本当にクルトの『写楽』を吟味したのか、まことに覚束ない。私には、写楽論議の危うさがここに現れているように思えてならない。

中嶋修は「調べることができた中で」と断った上で「レンブラント、ベラスケス」という言葉が入った写楽論文の初出として 仲田勝之助「東洲斎写楽」(『美術画報』画報社、大正9年(1920)6月号)を挙げている[50][注 23][注 24]

佐々木幹雄も、仲田勝之助の著書『写楽』(アルス、1925年)[52]で、仲田個人の見解としてレンブラントやベラスケスに比肩する世界的肖像画家として写楽を紹介したことが「クルトが認定した三大肖像画家」に改変されて一人歩きを始めてしまったと指摘している[53]。アルス美術叢書による巻末の広告には「浮世絵史上の重鎮として独逸のクルト博士の詳しい研究により写楽が一躍レンヴラントやベラスクエスさへ比肩すべき世界的一大肖像画家たる栄誉を負ふに至つた」という仲田勝之助の本文中にはない一文が存在する[54]

及川茂は「こういう文章はクルトの著作には存在せず、後世の粉飾の気配がある」と断っている[55]

美術編集者富田芳和は「クルトの『写楽』ではひとことも書かれていない文言が、日本人のだれかによって、クルトの写楽観を象徴する言葉としてつくり上げられ、一人歩きし、いつの間にか研究者の間で使い回しされる」という事態が生まれたと論じている[56]

作家高井忍は、1950年代に近藤市太郎が前述の仲田勝之助の評をクルトの見解だと取り違えて紹介し[注 25]、「世界三大肖像画家」の評価の出典をクルトの著書とする説明が日本国内に広まって定着するのは榎本雄斎の著作『写楽――まぼろしの天才』(新人物往来社、1969年)以降だと主張している[57]

世界三大肖像画家をクルトの言説だと紹介した最も早い事例には藤森成吉著『知られざる鬼才天才』(一九六五年、春秋社)所収の「宮川長春」がある。藤森は高橋誠一郎の著書『浮世絵二百五十年』(一九三八年、中央公論社)の写楽記事を引用した上で、次のように述べている[58]

クルトの発見的功績は高く評価するが、写楽を「レンブラント及びヴェラスケスと並んで世界三大肖像画家中の一人」とする限定は承服しがたい。写楽の役者絵が二重写し的肖像画たることを、ぼくは『渡辺崋山の人と芸術』中に指摘したが(この二重写し的肖像画論はさらに評論する必要がある)、世界肖像画家を論じるなら、クラナッハやホルバインやヴァン・ダイクを措くとしても、いや、崋山やルーベンスを措くとしても、デューラーやゴヤやファン・アイクを逸することはできない。「三大肖像画家」なぞときめるのは、写楽への陶酔的軽率か無知というほかない。

しかし、現存するクルトの著作にはこうした言説はなく、高橋もクルトの説だったとは書いていない。藤森は高橋による評価をクルトの著作からの引用だと誤認して、クルト自身は主張していない言説に対して批判を加えたのである。仮にこの言説の初見が藤森の著作をさかのぼることができないなら、世界三大肖像画家をクルトの言説だとする誤認は写楽を過大評価として批判する立場の側から広がったということになる。

瀬木慎一は、「世界三大肖像画家」については言及していないものの「読みもしないで、クルト、クルトとしきりに援用するのは危険である」と苦言を呈している[59][注 26]

英語版WikipediaのSharaku英語版の項には"Kurth ranked Sharaku's portraits with those of Rembrandt and Velázquez"との記載があるが、出典として挙がっているのはクルトの著作ではなく、東洋美術史家ヒューゴ・ムンスターバーグ(1916-1995)の1982年の著作『The Japanese Print: A Historical Guide [60]と近藤市太郎の1955年の著作の英訳『Toshusai Sharaku[61]である。スペイン語版WikipediaのTōshūsai Sharakuスペイン語版の項にも同趣旨の記載があるが、出典として挙がっているのは日本国内のイベントの広報[62]である。

「世界三大肖像画家」として写楽を紹介することは1930年代から前述の高橋誠一郎らの使用例がある[注 27]。評価が定着する以前には、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ベラスケスと共に「世界三大肖像画家」とする説[63]や、レンブラントやデューラーにも比すべき偉大さを認められたとする説[64]、クルトの『SHARAKU』によって「世界最大の肖像画家レムブラント、或は、彼以上の肖像画家」と賞賛されたとする説[65][66]などがあった。

ジェームズ・ミッチェナーは1954年の著書『The Floating World』の中で、写楽の作品をレンブラント、ベッリーニ、ベラスケス、ホルバインに匹敵する肖像画だと賞賛している[67]

なお、「世界三大肖像画家」をベラスケスに替えてルーベンスを加える説も流布している[68][69]

写楽を題材とした作品

著作
  • 近藤啓太郎著『しやらくせえ あほくせえ』(1979年、角川書店)
  • 高橋克彦著『写楽殺人事件』 (1983年、講談社→1986年、講談社文庫)
  • 石ノ森章太郎著『死やらく生―佐武と市捕物控』 (1983年、中央公論新社)
  • 池田満寿夫・川竹文夫共著『これが写楽だ 池田満寿夫推理ドキュメント』(1984年、日本放送出版協会)
  • 梅原猛著『写楽仮名の悲劇』 (1987年、新潮社→1991年、新潮文庫)
  • 明石散人・佐々木幹雄著『東洲斎写楽はもういない』(1990年、講談社→1993年、講談社文庫)
  • 清水義範著『金鯱の夢』(1992年、集英社)
  • 泡坂妻夫著『写楽百面相』(1993年、新潮社→1996年、新潮文庫→2005年、文春文庫)
  • 磯田啓二著『偽小説東洲斎写楽』(1993年、三一書房)
  • 皆川博子著『写楽』(1994年、角川書店→2020年、角川文庫)
  • 石森史郎著『東洲斎写楽 Sharaku,who?』(1996年、五月書房)
  • 島田荘司著『写楽 閉じた国の幻(上下)』 (2010年、新潮社→2013年、新潮文庫)
  • 鯨統一郎著『新・日本の七不思議』 (2011年、東京創元社)
  • 高井忍著『浮世絵師の遊戯 新説東洲斎写楽』 (2016年、文芸社)
  • 野口卓著『大名絵師写楽』 (2018年、新潮社)
  • 吉川永青著『写楽とお喜瀬』 (2019年、NHK出版)
  • 森明日香著『写楽女』 (2022年、角川春樹事務所)
映画
ラジオドラマ
  • 『写楽はどこへ行った』 (1966年、日本放送協会) - 原作:大岡信、演出:沖野瞭
テレビドラマ
  • NHK劇場『写楽はどこへ行った』 (1968年、日本放送協会) - 原作:大岡信、演出:遠藤利男、音楽:湯浅譲二、写楽:佐藤慶
テレビ番組
  • NHK特集『池田満寿夫推理ドキュメント 謎の絵師・写楽』(1984年、日本放送協会)
  • ハイビジョン特集 天才画家の肖像 「謎の浮世絵師 ~ 東洲斎写楽」 (2008年、日本放送協会)
  • NHKスペシャル『浮世絵ミステリー 写楽〜天才絵師の正体を追う〜』(2011年、日本放送協会)
    写楽が斎藤十郎兵衛とほぼ断定するに至るまでの研究成果を紹介するとともに、歌舞伎役者の中村獅童がナビゲーターとなり、劇中劇で写楽を演じたほか自ら研究者の許へ取材に出向いた。
舞台
ミュージカル
  • DNA-SHARAKU(2016年)
漫画
  • 銀平飯科帳』(河合単
    この作品では現代からタイムスリップした美大生の3人が分担(絵を描く、版を掘る、掘った版に色を塗って刷る)して浮世絵を描き、絵に感動した芦谷重三郎が絵と彫りを担当した二人の名前から一字ずつ取った「写楽」の雅号を頂いた設定になっている。

注釈

  1. ^ 長い間、この図の役名は「大谷鬼次の江戸兵衛」とされていた。しかし、当時のどの番付記録にも「奴」は付いておらず、ただ「江戸兵衛」と記されている。また浅野秀剛によれば、この場合のは武家の奴僕という意味であるが、現存する台帳を見ると江戸兵衛は非人盗賊乞食)達の頭で、武家の下僕なら剃らねばならい月代も残っている事から「奴」はないと考えられる[1]。だがこの説には異論があり、いくつかの意味がある「奴」について、「武家の奴僕」というひとつの意味に固執しすぎていると指摘される。岩田和夫の示教によって、「奴には、武士の奴僕の意のほかに、競(きおい)・男達(おとこだて)の意味もあり、狂言によっては、江戸兵衛(平)がそういう役柄で登場する場合もあった。その際「奴江戸平」という役名になることもあったことが確かめられる。」と浅野自身ものちに認めている[2]
  2. ^ ただし、役者版下絵は2点が行方不明、相撲版下絵は9点が大正期に焼失している。そのため現在存在する楽の役者版下絵は、ギメ東洋美術館2点、ボストン美術館2点[6]シカゴ美術館1点[7]、摘水軒記念文化振興財団(千葉市美術館寄託)2点、の計7点(ギメ所蔵の2点のみ「写楽画」の落款あり)、相撲版下絵は個人蔵の1点のみである[8]
  3. ^ 『増補浮世絵類考』(正確にはケンブリッジ大学図書館所蔵の斎藤月岑自筆本)の発見は1960年代になってからであり、斎藤十郎兵衛が疑われ、別人説が支持された1950年代までの浮世絵研究者は、肯定論・否定論を問わず、『増補浮世絵類考』の写楽記事を知らなかったということは留意が必要である。[11]
  4. ^ ただし、寛政六年当時は戯作・浮世絵等の市販には事前の検閲が必要であり、制度上、作者の身元がしれない出版物は許可されなかった。寛政二年五月の町触れには「一 都て作者不知書物類有之は、商売致間敷候」の一条が見える[12]
  5. ^ 狩野寿信編『本朝画家人名辞書(下)』(大倉書店,1893年)「歌舞妓堂」並びに「写楽」の項[13]で、両者を同一人物として見做している。『SHARAKU』を著したクルトは林忠正[14]、バルブートーの先行研究を踏まえ、写楽が歌舞妓堂艶鏡に改名したと考えていた[15]
  6. ^ 田中は『浮世絵類考』の一部の写本に、写楽と北斎を同一人物と読めることを論拠に上げている[16]。しかし、これは伝写の過程で北斎の記述が紛れ込んだものだと考えられる[17]。また、田中は写楽と北斎の武者絵における脛の描き方の類似も根拠として挙げている。しかし、北斎の師で、写楽が作画の参考にしたと推定される勝川春章、及びその弟子たちの脛の描き方も類似している[18]
  7. ^ 同じ時期に八丁堀地蔵橋に住んでいた人物に、国学者村田春海南町奉行所与力儒者中田粲堂、斎藤月岑が絵を学んだ文人画家谷口月窓がいる。
  8. ^ 国立国会図書館所蔵本の記号の書入れについては諏訪春雄が筆跡による考証を試み、記号の書入れには四種類あって、写楽斎の故人の記号は後人による書入れだと判断を下している[27]。『諸家人名江戸方角分』の写楽斎記事の存在を最初に報告した中野三敏も、文政元年以後の物故者の記事にも故人の記号が複数あることや、本文とは別筆による書入れが存在することは認識していた(中野三敏 1976)。
  9. ^ 中野三敏は「方角分」の故人印が数次にわたって書き入れられているとしながらも、当初は写楽の項目に付せられた故人印を「方角分」成立時のものとみなし、写楽を「文政元年の時点で故人」としていた[28]。後年になり、諏訪春雄の指摘を受けて当該部分を「つけてある故人印を、もし原本にあった通りのものと認定出来れば、文政元年には故人となっている」に訂正している[29]
  10. ^ 法光寺は平成5年に越谷市三野宮へ移転したが、それまでは築地にあった(越谷市公式ホームページ「江戸幕府は西本願寺に対し八丁堀先の海辺を代地として指定し、本願寺はその地を埋め立てて御堂を建設。この御堂が現在の西本願寺築地別院の始まり」)。
  11. ^ 斎藤十郎兵衛説への批判には、石田泰弘『東洲斎写楽・斎藤十郎兵衛同人説への疑義』などがある[30]
  12. ^ 達磨屋伍一旧蔵本、奈河本助(二代金沢竜玉)旧蔵本。達磨屋伍一旧蔵本は奈河本助旧蔵本を書き写したものだと考証されている。奈河本助は天保13年(1842年)に死去しているため、奈河本助の手による書き込みなら、斎藤月岑の増補以前の加筆ということになる[31]
  13. ^ 第3期間版役者絵11枚を除く。
  14. ^ 日本国内の書籍などではしばしば美術評論家・心理学者として紹介されるが、ドイツ語版Wikipedia記事での肩書はPfarrer(牧師)・Privatgelehrter(民間の研究家)・Autor(著述家)である。ベルリン大学でプロテスタント神学を学び、1886年ハイデルベルク大学哲学部博士。日本・中国の木版画に関する著作を多数手がけた他、エジプト、近東の古美術のコレクターで、クルトのコレクションは死後にマルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルクの考古学博物館に収蔵された。
  15. ^ ただし、『Sharaku』刊行以前の日本国内でも、明治36年(1903年)に酒井好古堂から『写楽名画揃』が刊行されている。
  16. ^ 明治34年(1901年)2月15日『読売新聞』に飯島虚心の記事「写楽の雲母絵」があり、当時、写楽の贋作が盛んに作られていたことを記している。
  17. ^ ユリウス・クルトは『SHARAKU』が初めての浮世絵関係の著作だったわけではなく、『Utamaro』(明治40年(1907年))[40]、『Harunobu』(明治43年(1910年))をすでに刊行していた。
  18. ^ 近年の例では、平成23年(2011)5月開催の特別展『写楽』(東京国立博物館東京新聞NHKNHKプロモーション主催)の図録に「ドイツの美術評論家ユリウス・クルトは、すでに100年前、写楽をベラスケスやレンブラントとならぶ世界三大肖像画家として評価しています」[43]との記述があり、国内外で同展覧会の広報に使用されたが、その典拠の提示はない。
  19. ^ 『写楽 SHARAKU』以前の日本語訳としては中川四明(四明老人)による抄訳「寫樂の雲母繪」(『京都美術』芸艸堂、1917年27号~29号)、『浮世絵芸術』誌に掲載された井上和雄(雨石)の研究ノート[44]があるが、「世界三大肖像画家」「レンブラント」「ベラスケス」に関する言及はない。
  20. ^ 『写楽 SHARAKU』刊行後の平成7年(1995)10月開催の『大写楽展』(東武美術館(2001年廃館)・NHK・NHKプロモーション主催)の図録に「今世紀になってドイツ人ユリウス・クルトによって、いわば再発見され、ベラスケス、レンブラントと並ぶ世界の三大肖像画家という評価も獲得しました」との記述があり、広報に使用されたが、その典拠の提示はない。
  21. ^ 2020年9月刊行の『浮世絵の解剖図鑑』に「後の世、海外の評論家からベラスケス、レンブラントと並ぶ「世界の三大肖像画家」と言われるようになります」[46]との記述があるが、同書は提唱者の名前を挙げておらず、また出典の提示はない 。
  22. ^ 菅原真弓は、ベラスケスやレンブラントに並ぶ三大肖像画家の一人という賞賛がクルトの『SHARAKU』に記されていないことを指摘した上で、クルトの写楽論と日本の写楽研究の≪ズレ≫についての興味深い論考として岸文和論文を紹介している[48]
  23. ^ 仲田勝之助論文「東洲斎写楽」(『美術画報』画報社、大正9年6月号)には「欧州の浮世絵愛好家に見出され、一躍レムブランドやベラスケスにさへ比肩すべき世界的肖像画家として認識」されるに至ったとあるだけで、出典は挙げていない。
  24. ^ ユリウス・クルトの写楽研究を最初に日本に紹介したとされるのは1914年発表の永井荷風の論文「浮世絵と江戸演劇」[51]だが、これには「世界三大肖像画家」「レンブラント」「ベラスケス」に関する言及はない。野口米次郎は『写楽』(第一書房、1926年)並びに『美の饗宴―六大浮世絵師論』(早川書店、1948年)を著し、両書で詳細にクルトの論を紹介しているが、「世界三大肖像画家」以下の言及はない。鈴木重三著『写楽』(講談社、1966年)では、フェノロサ、クルトをはじめ、外国人研究者たちの写楽評を詳しく紹介しているが、「世界三大肖像画家」以下の言及はない。
  25. ^ 近藤市太郎編『写楽』(大日本雄弁会講談社、1955年)は仲田の『写楽』を参考文献に上げ、「ミュンヘンの一書肆から1910年に出版された『SHARAKU』によって、彼はレンブラントやベラスケスにも比肩すべき世界的肖像画家の栄誉を与えられたのである」と紹介している。同書はポール・ブルームの訳により“Kodansha Library of Japanese Art Series”中の一冊『Toshusai Sharaku』(C.E. Tuttle社英語版 , 1955年)として英訳版が刊行されている。
  26. ^ ただし、瀬木慎一自身も『江戸美術の再発見』(毎日新聞社、1977年)p179などで「写楽をベラスケス、レンブラントと並ぶ世界の三大肖像画家とする説がドイツ人クルトによって唱えられ」たといった趣旨の説明を行っている。
  27. ^ 高橋を会長として発足した日本浮世絵協会編『浮世絵名作選集 写楽 』(山田書院、1968年)のはしがき(文責者なし)には「世界中の人々から、レンブラントやベラスケスと並んだ世界の三大肖像画家として絶賛され、仰がれている」とあるが、『SHARAKU』の中にそうした文章があるとは書いていない。

出典

  1. ^ 浅野秀剛 2002, p. 55
  2. ^ 写楽:特別展 2009「江戸兵衛」の項。
  3. ^ 岩田秀行 2013, pp. 73–79(リンク切れ)
  4. ^ フィラデルフィア 2015, p. 190
  5. ^ ACジャパン2015年度の日本脳卒中協会支援キャンペーン「写楽」のCMで原画の画像データを加工して制作された画像が使われ、特にテレビCMでは動画アニメになっており、視聴者に脳梗塞の症状をビジュアルでわかりやすく表現している。(2016年7月現在、このCMはYoutubeなどで閲覧できる。こちらのURLなどを参照。>https://www.youtube.com/watch?v=G6xW4Zpx8Zc
  6. ^ [1][2]
  7. ^ [3]
  8. ^ ギメ東洋美術館所蔵 2007, p. 211
  9. ^ 浅野秀剛 2013, pp. 7–23
  10. ^ 大田南畝 著、仲田勝之助 編『浮世絵類考』岩波書店、1941年、118-119頁。NDLJP:1068946 
  11. ^ 小山騰 2020
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  21. ^ NHK特集『池田満寿夫推理ドキュメント 謎の絵師・写楽』(1984年、日本放送協会)
  22. ^ 井上和雄『写楽』昭和15年に「又能油画号有隣」の引用あり。出典は大草公弼『異本浮世類考』
  23. ^ 『写楽実は俳人谷素外』(『読売新聞』昭和44年10月16日号、日本浮世絵博物館館長・酒井藤吉)
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  37. ^ 中嶋修 2012, p. 462。なお本著では、原本ではなく図版写真による鑑定ではあるが、写楽作品を悉皆的に精査し、第2期最初の「篠塚浦右衛門の都座口上図」以外は後世の模刻の可能性があることを指摘している。
  38. ^ 歌舞伎大事典 2012, p. 331。当項目の執筆は、岩田秀行
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  44. ^ 飯島利種「井上和雄氏の資料「雨石ノート」より 写楽〈クルト〉1」『浮世絵芸術』第59巻、国際浮世絵学会、1979年、23-33頁、CRID 1390567901499798528doi:10.34542/ukiyoeart.555ISSN 0041-5979 
    飯島利種「井上和雄氏の資料「雨石ノート」より 写楽〈クルト〉2」『浮世絵芸術』第61巻、国際浮世絵学会、1979年、11-27頁、CRID 1390004951546390912doi:10.34542/ukiyoeart.571ISSN 00415979 
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