1943-1945とは? わかりやすく解説

1943 - 1945

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/22 09:37 UTC 版)

ニューオーリンズ (重巡洋艦)」の記事における「1943 - 1945」の解説

ニューオーリンズ復旧修理が終わると、8月31日演習のため真珠湾戻った次いで14任務部隊アルフレッド・E・モントゴメリー少将)に合流し10月5日から7日にかけて行われたウェーク島への攻撃加わり日本雷撃機撃退した11月10日真珠湾帰投後、10日後の11月20日ガルヴァニック作戦参加してギルバート諸島向かった。同方面機動部隊護衛あたったが、12月4日マーシャル諸島沖航空戦空母レキシントン (''USS Lexington, CV-16) が雷撃機攻撃損傷したため、ニューオーリンズレキシントン護衛し真珠湾向かい12月9日到着したニューオーリンズ1944年1月29日からのクェゼリンの戦いでは砲撃任務にあたりマジュロ制圧した2月17日から18日行われたトラック島空襲にも参加。かつてニューオーリンズもいた第16任務部隊率いてミッドウェー海戦勝利し今や第5艦隊司令長官であるスプルーアンス大将は、トラック諸島内にいまだ有力艦船多数残っていると考え空襲後には外に出てくるだろうと推測した。どうしても先頭切って戦いたかったスプルーアンス大将は、脱出してきた有力艦船との砲戦念頭にこれまでの第5艦隊旗艦インディアナポリス (USS Indianapolis, CA-35) から乗り換え配属されたばかり戦艦ニュージャージー (USS New Jersey, BB-62) を新たな第5艦隊旗艦にしたのであるニューオーリンズミネアポリスとともにロバート・C・ギッフェン少将率いられスプルーアンス大将直率の戦艦ニュージャージーおよびアイオワ (USS Iowa, BB-61)、駆逐艦4隻とともにトラック諸島の外を一周午後もだいぶ経った頃、部隊艦載機空襲により航行不能になっていた軽巡洋艦香取駆逐艦舞風、および脱出を図る駆逐艦野分発見スプルーアンス大将戦艦目標野分に、ニューオーリンズミネアポリス目標香取にと割り振った野分脱出成功したが、香取舞風射撃続けながら沈没していった。また、この戦い前後特設駆潜艇および駆潜艇砲火撃沈した第58任務部隊マーク・ミッチャー中将)はトラック続いてマリアナ諸島攻撃した後、マジュロ経て真珠湾帰投した。 ニューオーリンズ引き続き第58任務部隊護衛し3月カロリン諸島攻撃および4月ホーランディアへの攻撃参加した4月22日空母ヨークタウン (''USS Yorktown, CV-10) の艦載機ニューオーリンズメインマスト衝突し砲架当たった後海中に転落した転落した爆発起こりニューオーリンズ水しぶき浴びた。これにより、1名の乗組員が行不明となり、何名かの乗組員負傷したニューオーリンズニューギニア沖に続いてトラックサタワン環礁への空襲支援したほか、4月30日サタワン環礁砲撃した5月4日ニューオーリンズマジュロ帰投した。整備行った後、ニューオーリンズマリアナ諸島攻撃に向かうため6月10日クェゼリン環礁出撃した。 6月15日から16日サイパン島に対して艦砲射撃を行う一方第58任務部隊反撃してきた小沢治三郎中将率い機動部隊マリアナ沖海戦戦ったが、艦載機潜水艦攻撃により空母3隻を撃沈し395機の日本機を撃墜した第58任務部隊接触したわずかな日本機は、ニューオーリンズ他の対空砲火で蹴散らされた。これを所謂マリアナの七面鳥撃ちと言うマリアナ沖海戦以降この方面での日本機の活動見られなくなった8月までサイパン島テニアン島への攻撃参加した後、ニューオーリンズ8月13日エニウェトク環礁帰投整備の後、8月28日出撃して第38任務部隊(ミッチャー中将)の小笠原諸島硫黄島へ空襲支援し9月1日2日には硫黄島に対して艦砲射撃行ったパラオへの空襲の後マヌス島に一旦帰投したニューオーリンズは、沖縄島台湾および北部ルソン島日本航空基地への攻撃のため出撃10月20日行われたレイテ島の上陸を支援し、これに対抗して出撃してきた日本艦隊迎え撃ったレイテ沖海戦)。 ニューオーリンズはこの海戦では第38.4任務群(ラルフ・E・デヴィソン少将)に属し空母の直衛にあたっていた。10月24日第3艦隊司令長官ウィリアム・ハルゼー大将は、栗田健男中将率い艦隊進撃備えてこれまで空母の直衛にあたっていた戦艦巡洋艦駆逐艦以って34任務部隊編成し司令官ウィリス・A・リー中将任命したハルゼー大将当初、第34任務部隊サンベルナルジノ海峡付近に待機させたが、南を行く西村祥治中将艦隊第7艦隊トーマス・C・キンケイド中将指揮下の砲撃部隊対処でき、栗田艦隊空襲引き返し再び東進しても、これも第7艦隊砲撃部隊対処できるだろうと考え当面撃破目標を北の小沢艦隊絞って北上した。翌10月25日戦況ハルゼー大将シナリオとは全く異な様相示した栗田艦隊サマール島沖に出現し護衛空母部隊追いかけまわし、キンケイド中将泣き言加え太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将からの「第34任務部隊はどこにいるか、世界が訝っている」の電文を受けショック受けたハルゼー大将は、空母部隊のうち1個任務群と第34任務部隊のうちの戦艦軽巡洋艦駆逐艦南下させ、ニューオーリンズは残る空母部隊とともに北上した午後遅くニューオーリンズ重巡洋艦ウィチタ (USS Wichita, CA-45)、軽巡洋艦サンタフェ (USS Santa Fe, CL-60)、モービル (USS Mobile, CL-63) および駆逐艦とともにローレンス・T・デュボース少将率いられ北上続けていた。その時レキシントン艦載機サンタフェ近く飛行し、「近く空母放置されている」と報告16時25分、ニューオーリンズ目当て空母千代田発見しウィチタとともに砲撃開始サンタフェモービル砲撃し千代田一方的に撃たれ続けた沈没していった。レイテ沖海戦アメリカ海軍日本艦隊叩きのめし空前勝利を収めたウルシー環礁での補給後、ニューオーリンズ引き続きミンドロ島侵攻先立つフィリピン対す航空攻撃を行う第38任務部隊護衛行いその後ハワイ戻って同地訓練行い12月後半にはオーバーホールのためメア・アイランド海軍造船所向かったニューオーリンズ1945年4月18日ウルシー環礁帰投し、沖縄島への艦砲射撃任務のため2日後出撃し、4月23日到着した沿岸砲台との砲撃戦を行う。2ヶ月近く沖縄戦戦場過ごしその後補給修理のためフィリピンに向かう。8月15日終戦時ニューオーリンズスービック湾にあった

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1943 - 1945

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 15:59 UTC 版)

ペンサコーラ (重巡洋艦)」の記事における「1943 - 1945」の解説

1943年昭和18年11月8日修理終えたペンサコーラガルヴァニック作戦参加し機動部隊護衛のため真珠湾出撃した。11月19日ペンサコーラはベティオ島に対して艦砲射撃行い600発の主砲弾を発射して水際防御陣地構造物破壊したタラワの戦いが始まると、ペンサコーラ艦載機協力して上陸部隊支援行った。その前後発生した第一次ギルバート諸島沖航空戦では一式陸攻追い払ったものの軽空母インディペンデンス (USS Independence, CVL-22) に魚雷が1本命中して損傷ペンサコーラは、損傷したインディペンデンスフナフティ島送り届けたその後の2ヵ月間、ペンサコーラ機動部隊護衛徹した1944年昭和19年1月29日からは、ペンサコーラマーシャル諸島対す戦い参加した29日夜に東部マーシャルタラオ島を艦砲射撃したのに続きウォッジェ環礁にある飛行場水上機基地火薬庫および陸上構造物艦砲破壊した1月31日にもクェゼリン環礁マジュロ環礁に対して圧力をかけ、2月5日からのクェゼリンの戦いによってロイ=ナムル島が第4海兵師団によって占領された後も、ペンサコーラ2月18日までタラオマロエラップ環礁海岸陣地飛行場対す砲撃続けたマーシャル諸島制圧後はクェゼリンマジュロ中心に哨戒行い3月30日ら行われた高速機部隊によるパラオヤップ島ウルシー環礁およびウォレアイ環礁対す攻撃では、再び機動部隊護衛徹したペンサコーラ4月25日マジュロ出港して真珠湾とメア・アイランドを経由し北太平洋向かった5月27日ペンサコーラクラック湾に到着した後、巡洋艦駆逐艦による任務部隊加わり6月13日松輪島飛行場に対して艦砲射撃行ったのを皮切りに6月26日朝には幌筵島港湾施設飛行場に対して300発もの8インチ砲弾浴びせたペンサコーラ6月28日クラック湾に帰投後、8月8日までアリューシャン方面哨戒行った真珠湾戻った8月13日ペンサコーラ真珠湾到着29日に他の重巡洋艦と第12.5任務群(アレン・E・スミス少将)を構成してマリアナ諸島向かい、その途中9月3日には軽空母モンテレー (USS Monterey, CVL-26) の艦載機などと共同ウェーク島艦砲射撃行った10月9日には南鳥島通信施設陸上施設砲撃した。これらの攻撃は、ウィリアム・ハルゼー中将率い第3艦隊が、アメリカ側次の目標小笠原諸島方面等であるかのように装って日本側の注意真の目的と違う方向に向けるために行われたこの間ハルゼー高速機部隊沖縄島台湾空襲した後、フィリピン進撃したペンサコーラ台湾沖航空戦大破した大型軽巡ヒューストン (USS Houston, CL-81) および重巡洋艦キャンベラ (SS Canberra, CA-70) をウルシーまで護衛したあと、10月16日エセックス級空母ワスプ (USS Wasp, CV-18) とともに高速機部隊加わった翌日第7艦隊支援されフィリピンの戦い始まったペンサコーラジョン・S・マケイン中将の第38.1任務群に加わってレイテ沖海戦を戦うことになった10月20日レイテ島の上陸を支援後、小沢治三郎中将率い機動部隊対決すべく北に急行し小沢機動部隊打ちのめすと南に向かったペンサコーラ高速機部隊護衛から離れた後、11月11日夜から12日にかけて、硫黄島対す艦砲射撃のため出撃し、14日ウルシー帰投11月20日早朝ペンサコーラ重巡チェスター (USS Chester, CA-27) 、ソルトレイクシティ (USS Salt Lake City, CA-25) 、駆逐艦4隻と共にウルシー環礁から出てムガイ水道通過していた。0523、水道東口哨戒中の米掃海艇ヴィジランス英語版) (USS Vigilance, AM-324) が潜望鏡航跡発見し通報。これを受け、艦隊水道を出るとともに之字運動開始その後チェスターが550m先に、その右舷航行していた米駆逐艦ケース英語版) (USS Case, DD-370) が艦隊接近しよう南下する潜望鏡発見チェスターはこれを押し潰そうとスピード上げた。「潜航艇魚雷発射のために占位運動中」と判断したケースは、潜望鏡チェスター向いたままなのを見て体当たり決意チェスター衝突避けるためスピード落として進路変えた。0538、ペンサコーラ右舷2000mの距離で潜望鏡発見ペンサコーラはこれを回避した潜航艇ペンサコーラ前方潜航通過して隊列南側浮上し、左に大きく旋回してチェスターの右正横に移動ケースはここにきて面舵一杯右舷後進一杯左舷前進一杯で急速転舵し、0538に浮上航走中の潜航艇左側から中央部艦首でへし折り続いて旋回しながら爆雷投下し、これを撃沈した。この潜航艇伊36から発進した人間魚雷回天である可能性が高い。その4分後、ペンサコーラ僚艦とともに伊47から発進した回天による給油艦ミシシネワ (USS Mississinewa, AO-59) の沈没目の当たりにした。ペンサコーラ11月22日サイパン島入港した硫黄島対す再度砲撃準備行った一方で5日後の11月27日には、イセリー飛行場集結するB-29破壊すべく襲撃してきた第一御盾隊の排除協力したペンサコーラ12月6日サイパン島出撃し、12月8日硫黄島に対して8インチ砲を500発発射した。ペンサコーラ12月24日27日1945年1月5日にも摺鉢山北方にある砲台砲撃し1月24日には父島母島防御施設にも砲撃加えた1月27日ペンサコーラウルシー構成されB. J. ロジャース少将率いる、戦艦巡洋艦駆逐艦構成され任務部隊加わった任務部隊戦艦6隻と巡洋艦4隻を中心とし、その周囲駆逐艦護衛していた。任務部隊2月10日出撃した後、テニアン島経て硫黄島向かった2月16日ペンサコーラ硫黄島北西海域位置し、同方面守備隊向けて発砲した午後ペンサコーラ観測機操縦していたダグラス・W・ガンディ中尉は、日本戦闘機撃墜した翌日ペンサコーラ掃海艇支援のため海岸にかなり接近して砲撃をしていた。その時砲台からの反撃を受け、ペンサコーラ避退行動移ろうとした。しかし、続けさまに7発被弾し観測機炎上して砲撃のために並べてあった弾薬にも引火してのた打ち回ったペンサコーラ幹部3名と14名の乗組員戦死し幹部1名と114名の乗組員負傷した。幸い、ペンサコーラ命中弾を与えた砲台足場崩れたため、ペンサコーラ命拾いをした。ペンサコーラ応急修理のため一時下がり、修理完了砲撃任務続行した2月19日朝、ペンサコーラ上陸部隊支援砲撃実施し昼夜問わず砲撃続けた3月1日駆逐艦テリー (USS Terry, DD-513) が反撃により損傷すると、ペンサコーラテリー守りつつ砲撃加えた一連の砲撃3月3日まで続いたペンサコーラ3月5日ウルシー帰投し、日本対する「最後飛び石作戦」である沖縄戦参加すべく3月20日出撃した。 沖縄戦では、第5艦隊 (Fifth Fleet) 隷下の第54任務部隊指揮官モートン・デヨ少将)第4群(指揮官マコーミック少将戦艦アイダホ戦艦ウェストバージニア重巡ペンサコーラポートランド大型軽巡ビロクシ、駆逐艦アーウィン、ポーターフィールド、キャラハンカッシン・ヤングプレストン)を編成していた(沖縄戦連合軍戦闘序列)。3月25日ペンサコーラ上陸備えて事前掃海を行う掃海艇隊の支援日本側の防御施設砲撃3月27日ペンサコーラ左舷艦尾方向魚雷発見した2番目の魚雷ペンサコーラ向かってものすごスピード突進してきたが、ペンサコーラは左に避けつつ40ミリ機関砲魚雷狙って撃った最初魚雷ペンサコーラ右舷艦尾20フィート未満ところを通過し潜望鏡ペンサコーラ20ヤード離れたところに出現し通過していき、機銃員はこれに対して発砲したペンサコーラ4月1日の上作戦当日をはさみ、4月15日まで砲撃行ったその後グアム真珠湾経由して5月7日メア・アイランド海軍造船所到着しオーバーホール入った。この時のオーバーホールでは、神風対策40ミリ機関砲増設レーダー更新が行われ、これと同時に増設し機関砲レーダー機器類と同等重量物が除去されることとなった一例として前部マスト短くなり、不必要な分のカタパルト測距儀撤去された。 オーバーホールが終わると、ペンサコーラ8月3日アラスカ州アダック島向けて出航終戦時同地停泊であった8月31日に第5巡洋艦と共に出航し大湊に向かう。9月8日大湊沖に停泊した

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