1943 - 1945
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「ニューオーリンズ (重巡洋艦)」の記事における「1943 - 1945」の解説
ニューオーリンズは復旧修理が終わると、8月31日に演習のため真珠湾に戻った。次いで第14任務部隊(アルフレッド・E・モントゴメリー少将)に合流し、10月5日から7日にかけて行われたウェーク島への攻撃に加わり、日本の雷撃機を撃退した。11月10日に真珠湾に帰投後、10日後の11月20日にガルヴァニック作戦に参加してギルバート諸島に向かった。同方面で機動部隊の護衛にあたったが、12月4日のマーシャル諸島沖航空戦で空母レキシントン (''USS Lexington, CV-16) が雷撃機の攻撃で損傷したため、ニューオーリンズはレキシントンを護衛し真珠湾に向かい、12月9日に到着した。 ニューオーリンズは1944年1月29日からのクェゼリンの戦いでは砲撃任務にあたり、マジュロも制圧した。2月17日から18日に行われたトラック島空襲にも参加。かつてニューオーリンズもいた第16任務部隊を率いてミッドウェー海戦に勝利し、今や第5艦隊司令長官であるスプルーアンス大将は、トラック諸島内にいまだ有力艦船が多数残っていると考え、空襲後には外に出てくるだろうと推測した。どうしても先頭を切って戦いたかったスプルーアンス大将は、脱出してきた有力艦船との砲戦を念頭に、これまでの第5艦隊旗艦インディアナポリス (USS Indianapolis, CA-35) から乗り換え、配属されたばかりの戦艦ニュージャージー (USS New Jersey, BB-62) を新たな第5艦隊旗艦にしたのである。ニューオーリンズはミネアポリスとともにロバート・C・ギッフェン少将に率いられ、スプルーアンス大将直率の戦艦ニュージャージーおよびアイオワ (USS Iowa, BB-61)、駆逐艦4隻とともにトラック諸島の外を一周。午後もだいぶ経った頃、部隊は艦載機の空襲により航行不能になっていた軽巡洋艦香取と駆逐艦舞風、および脱出を図る駆逐艦野分を発見。スプルーアンス大将は戦艦の目標を野分に、ニューオーリンズとミネアポリスの目標を香取にと割り振った。野分は脱出に成功したが、香取と舞風は射撃を続けながら沈没していった。また、この戦いの前後に特設駆潜艇および駆潜艇を砲火で撃沈した。第58任務部隊(マーク・ミッチャー中将)はトラックに続いてマリアナ諸島を攻撃した後、マジュロを経て真珠湾に帰投した。 ニューオーリンズは引き続き第58任務部隊を護衛し、3月のカロリン諸島攻撃および4月のホーランディアへの攻撃に参加した。4月22日、空母ヨークタウン (''USS Yorktown, CV-10) の艦載機がニューオーリンズのメインマストに衝突し、砲架に当たった後海中に転落した。転落した際爆発が起こり、ニューオーリンズは水しぶきを浴びた。これにより、1名の乗組員が行方不明となり、何名かの乗組員が負傷した。ニューオーリンズはニューギニア沖に続いてトラックとサタワン環礁への空襲を支援したほか、4月30日にサタワン環礁を砲撃した。5月4日、ニューオーリンズはマジュロに帰投した。整備を行った後、ニューオーリンズはマリアナ諸島攻撃に向かうため6月10日にクェゼリン環礁を出撃した。 6月15日から16日にサイパン島に対して艦砲射撃を行う一方、第58任務部隊は反撃してきた小沢治三郎中将率いる機動部隊とマリアナ沖海戦を戦ったが、艦載機と潜水艦の攻撃により空母3隻を撃沈し、395機の日本機を撃墜した。第58任務部隊に接触したわずかな日本機は、ニューオーリンズ他の対空砲火で蹴散らされた。これを所謂「マリアナの七面鳥撃ち」と言う。マリアナ沖海戦以降、この方面での日本機の活動は見られなくなった。8月までサイパン島とテニアン島への攻撃に参加した後、ニューオーリンズは8月13日にエニウェトク環礁に帰投。整備の後、8月28日に出撃して第38任務部隊(ミッチャー中将)の小笠原諸島と硫黄島への空襲を支援し、9月1日と2日には硫黄島に対して艦砲射撃を行った。パラオへの空襲の後マヌス島に一旦帰投したニューオーリンズは、沖縄島、台湾および北部ルソン島の日本の航空基地への攻撃のため出撃。10月20日に行われたレイテ島への上陸を支援し、これに対抗して出撃してきた日本艦隊を迎え撃った(レイテ沖海戦)。 ニューオーリンズはこの海戦では第38.4任務群(ラルフ・E・デヴィソン少将)に属し、空母の直衛にあたっていた。10月24日、第3艦隊司令長官ウィリアム・ハルゼー大将は、栗田健男中将率いる艦隊の進撃に備えてこれまで空母の直衛にあたっていた戦艦や巡洋艦、駆逐艦を以って第34任務部隊を編成し、司令官にウィリス・A・リー中将を任命した。ハルゼー大将は当初、第34任務部隊をサンベルナルジノ海峡付近に待機させたが、南を行く西村祥治中将の艦隊は第7艦隊(トーマス・C・キンケイド中将)指揮下の砲撃部隊で対処でき、栗田艦隊が空襲で引き返し再び東進しても、これも第7艦隊の砲撃部隊で対処できるだろうと考え、当面の撃破目標を北の小沢艦隊に絞って北上した。翌10月25日、戦況はハルゼー大将のシナリオとは全く異なる様相を示した。栗田艦隊がサマール島沖に出現して護衛空母部隊を追いかけまわし、キンケイド中将の泣き言に加え太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将からの「第34任務部隊はどこにいるか、世界が訝っている」の電文を受けショックを受けたハルゼー大将は、空母部隊のうち1個任務群と第34任務部隊のうちの戦艦と軽巡洋艦、駆逐艦を南下させ、ニューオーリンズは残る空母部隊とともに北上した。 午後遅く、ニューオーリンズは重巡洋艦ウィチタ (USS Wichita, CA-45)、軽巡洋艦サンタフェ (USS Santa Fe, CL-60)、モービル (USS Mobile, CL-63) および駆逐艦群とともにローレンス・T・デュボース少将に率いられ北上を続けていた。その時、レキシントンの艦載機がサンタフェ近くを飛行し、「近くに空母が放置されている」と報告。16時25分、ニューオーリンズは目当ての空母千代田を発見し、ウィチタとともに砲撃を開始。サンタフェ、モービルも砲撃し、千代田は一方的に撃たれ続けた後沈没していった。レイテ沖海戦でアメリカ海軍は日本艦隊を叩きのめし、空前の勝利を収めた。 ウルシー環礁での補給後、ニューオーリンズは引き続きミンドロ島侵攻に先立つフィリピンに対する航空攻撃を行う第38任務部隊の護衛を行い、その後ハワイに戻って同地で訓練を行い、12月後半にはオーバーホールのためメア・アイランド海軍造船所に向かった。ニューオーリンズは1945年4月18日にウルシー環礁に帰投し、沖縄島への艦砲射撃任務のため2日後に出撃し、4月23日に到着した。沿岸砲台との砲撃戦を行う。2ヶ月近くを沖縄戦の戦場で過ごし、その後補給と修理のためフィリピンに向かう。8月15日の終戦時、ニューオーリンズはスービック湾にあった。
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1943 - 1945
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「ペンサコーラ (重巡洋艦)」の記事における「1943 - 1945」の解説
1943年(昭和18年)11月8日、修理を終えたペンサコーラはガルヴァニック作戦に参加し、機動部隊の護衛のため真珠湾を出撃した。11月19日、ペンサコーラはベティオ島に対して艦砲射撃を行い、600発の主砲弾を発射して水際防御の陣地と構造物を破壊した。タラワの戦いが始まると、ペンサコーラは艦載機と協力して上陸部隊の支援を行った。その前後に発生した第一次ギルバート諸島沖航空戦では一式陸攻を追い払ったものの軽空母インディペンデンス (USS Independence, CVL-22) に魚雷が1本命中して損傷。ペンサコーラは、損傷したインディペンデンスをフナフティ島に送り届けた。その後の2ヵ月間、ペンサコーラは機動部隊の護衛に徹した。 1944年(昭和19年)1月29日からは、ペンサコーラはマーシャル諸島に対する戦いに参加した。29日夜に東部マーシャルのタラオ島を艦砲射撃したのに続き、ウォッジェ環礁にある飛行場、水上機基地、火薬庫および陸上構造物を艦砲で破壊した。1月31日にもクェゼリン環礁とマジュロ環礁に対して圧力をかけ、2月5日からのクェゼリンの戦いによってロイ=ナムル島が第4海兵師団によって占領された後も、ペンサコーラは2月18日までタラオ、マロエラップ環礁の海岸陣地と飛行場に対する砲撃を続けた。マーシャル諸島制圧後はクェゼリンとマジュロを中心に哨戒を行い、3月30日から行われた高速機動部隊によるパラオ、ヤップ島、ウルシー環礁およびウォレアイ環礁に対する攻撃では、再び機動部隊の護衛に徹した。 ペンサコーラは4月25日にマジュロを出港して真珠湾とメア・アイランドを経由し、北太平洋に向かった。5月27日、ペンサコーラはクラック湾に到着した後、巡洋艦と駆逐艦による任務部隊に加わり、6月13日に松輪島の飛行場に対して艦砲射撃を行ったのを皮切りに、6月26日朝には幌筵島の港湾施設や飛行場に対して300発もの8インチ砲弾を浴びせた。ペンサコーラは6月28日にクラック湾に帰投後、8月8日までアリューシャン方面で哨戒を行った後真珠湾に戻った。 8月13日、ペンサコーラは真珠湾に到着。29日に他の重巡洋艦と第12.5任務群(アレン・E・スミス少将)を構成してマリアナ諸島へ向かい、その途中の9月3日には軽空母モンテレー (USS Monterey, CVL-26) の艦載機などと共同でウェーク島へ艦砲射撃を行った。10月9日には南鳥島の通信施設と陸上施設を砲撃した。これらの攻撃は、ウィリアム・ハルゼー中将率いる第3艦隊が、アメリカ側の次の目標が小笠原諸島方面等であるかのように装って、日本側の注意を真の目的と違う方向に向けるために行われた。この間、ハルゼーの高速機動部隊は沖縄島と台湾を空襲した後、フィリピンに進撃した。 ペンサコーラは台湾沖航空戦で大破した大型軽巡ヒューストン (USS Houston, CL-81) および重巡洋艦キャンベラ (SS Canberra, CA-70) をウルシーまで護衛したあと、10月16日にエセックス級空母ワスプ (USS Wasp, CV-18) とともに高速機動部隊に加わった。翌日、第7艦隊に支援されてフィリピンの戦いが始まった。ペンサコーラはジョン・S・マケイン中将の第38.1任務群に加わってレイテ沖海戦を戦うことになった。10月20日のレイテ島への上陸を支援後、小沢治三郎中将率いる機動部隊と対決すべく北に急行し、小沢の機動部隊を打ちのめすと南に向かった。 ペンサコーラは高速機動部隊の護衛から離れた後、11月11日夜から12日にかけて、硫黄島に対する艦砲射撃のため出撃し、14日にウルシーに帰投。11月20日早朝、ペンサコーラは重巡チェスター (USS Chester, CA-27) 、ソルトレイクシティ (USS Salt Lake City, CA-25) 、駆逐艦4隻と共にウルシー環礁から出て、ムガイ水道を通過していた。0523、水道東口を哨戒中の米掃海艇ヴィジランス(英語版) (USS Vigilance, AM-324) が潜望鏡と航跡を発見し、通報。これを受け、艦隊は水道を出るとともに之字運動を開始。その後、チェスターが550m先に、その右舷を航行していた米駆逐艦ケース(英語版) (USS Case, DD-370) が艦隊に接近しようと南下する潜望鏡を発見。チェスターはこれを押し潰そうとスピードを上げた。「潜航艇が魚雷発射のために占位運動中」と判断したケースは、潜望鏡がチェスターを向いたままなのを見て体当たりを決意。チェスターは衝突を避けるためスピードを落として進路を変えた。0538、ペンサコーラの右舷2000mの距離で潜望鏡を発見。ペンサコーラはこれを回避した。潜航艇はペンサコーラの前方を潜航通過して隊列の南側に浮上し、左に大きく旋回してチェスターの右正横に移動。ケースはここにきて面舵一杯、右舷後進一杯、左舷機前進一杯で急速転舵し、0538に浮上航走中の潜航艇の左側から中央部を艦首でへし折り、続いて旋回しながら爆雷を投下し、これを撃沈した。この潜航艇は伊36から発進した人間魚雷回天である可能性が高い。その4分後、ペンサコーラは僚艦とともに、伊47から発進した回天による給油艦ミシシネワ (USS Mississinewa, AO-59) の沈没を目の当たりにした。ペンサコーラは11月22日にサイパン島に入港した。 硫黄島に対する再度の砲撃の準備を行った一方で、5日後の11月27日には、イセリー飛行場に集結するB-29を破壊すべく襲撃してきた第一御盾隊の排除に協力した。ペンサコーラは12月6日にサイパン島を出撃し、12月8日に硫黄島に対して8インチ砲を500発発射した。ペンサコーラは12月24日と27日、1945年1月5日にも摺鉢山北方にある砲台を砲撃し、1月24日には父島と母島の防御施設にも砲撃を加えた。 1月27日、ペンサコーラはウルシーで構成されたB. J. ロジャース少将率いる、戦艦と巡洋艦、駆逐艦で構成された任務部隊に加わった。任務部隊は戦艦6隻と巡洋艦4隻を中心とし、その周囲を駆逐艦が護衛していた。任務部隊は2月10日に出撃した後、テニアン島を経て硫黄島に向かった。 2月16日、ペンサコーラは硫黄島の北西海域に位置し、同方面の守備隊に向けて発砲した。午後、ペンサコーラの観測機を操縦していたダグラス・W・ガンディ中尉は、日本の戦闘機を撃墜した。翌日、ペンサコーラは掃海艇の支援のため海岸にかなり接近して砲撃をしていた。その時、砲台からの反撃を受け、ペンサコーラは避退行動に移ろうとした。しかし、続けさまに7発被弾し、観測機が炎上して砲撃のために並べてあった弾薬にも引火してのた打ち回った。ペンサコーラは幹部3名と14名の乗組員が戦死し、幹部1名と114名の乗組員が負傷した。幸い、ペンサコーラに命中弾を与えた砲台の足場が崩れたため、ペンサコーラは命拾いをした。ペンサコーラは応急修理のため一時下がり、修理完了後砲撃任務を続行した。 2月19日朝、ペンサコーラは上陸部隊の支援砲撃を実施し、昼夜問わず砲撃を続けた。3月1日に駆逐艦テリー (USS Terry, DD-513) が反撃により損傷すると、ペンサコーラはテリーを守りつつ砲撃を加えた。一連の砲撃は3月3日まで続いた。ペンサコーラは3月5日にウルシーに帰投し、日本に対する「最後の飛び石作戦」である沖縄戦に参加すべく3月20日に出撃した。 沖縄戦では、第5艦隊 (Fifth Fleet) 隷下の第54任務部隊(指揮官モートン・デヨ少将)第4群(指揮官マコーミック少将:戦艦アイダホ、戦艦ウェストバージニア、重巡ペンサコーラ、ポートランド、大型軽巡ビロクシ、駆逐艦アーウィン、ポーターフィールド、キャラハン、カッシン・ヤング、プレストン)を編成していた(沖縄戦、連合軍戦闘序列)。3月25日、ペンサコーラは上陸に備えて事前掃海を行う掃海艇隊の支援で日本側の防御施設を砲撃。3月27日、ペンサコーラの左舷艦尾方向に魚雷を発見した。2番目の魚雷はペンサコーラに向かってものすごいスピードで突進してきたが、ペンサコーラは左に避けつつ40ミリ機関砲で魚雷を狙って撃った。最初の魚雷はペンサコーラの右舷艦尾の20フィート未満のところを通過し、潜望鏡はペンサコーラと20ヤード離れたところに出現し通過していき、機銃員はこれに対して発砲した。 ペンサコーラは4月1日の上陸作戦当日をはさみ、4月15日まで砲撃を行った。その後、グアムと真珠湾を経由して5月7日にメア・アイランド海軍造船所に到着し、オーバーホールに入った。この時のオーバーホールでは、神風対策で40ミリ機関砲の増設とレーダーの更新が行われ、これと同時に増設した機関砲とレーダー機器類と同等の重量物が除去されることとなった。一例として前部マストは短くなり、不必要な分のカタパルトや測距儀も撤去された。 オーバーホールが終わると、ペンサコーラは8月3日にアラスカ州アダック島に向けて出航。終戦時は同地で停泊中であった。8月31日に第5巡洋艦隊と共に出航し、大湊に向かう。9月8日に大湊沖に停泊した。
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