集団自決
集団自決
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 10:48 UTC 版)
サイパンは日本人の民間人が居住している土地での初めての本格的な防衛戦闘となったが、当時の日本には戦闘地域における民間人の取り扱いについての取り決めはなく、アメリカ軍の艦砲射撃や空襲が始まると、多数の民間人が巻き込まれて死傷した。アメリカ軍上陸直前の6月14日には日本人民間人に防衛召集がかけられ、青年団や警防団は軍に協力して後方任務に従事したが、軍が日本人民間人の保護や避難誘導を組織的に行ったという記録はなく、砲爆撃に家を焼かれた民間人は子供の手を引いて、山岳地帯に列をなして自ら避難していった。 サイパンの民間人の扱いに対して協議されたのは、大本営がサイパンの放棄を決定した後の6月28日であり、東條より検討の指示を受けた軍務局長佐藤賢了中将が、医事局長大塚文郎大佐を幹事とする連絡会議を開催して協議された。そこで「政府が命令において死ねというのは如何なものか」「非戦闘員が自害してればよいが、やむを得ずに敵手に落ちることもあるも、やむを得ないではないか」という意見が出されて「民間人は自決が望ましいが、死ねとも言えないので、やむを得ずアメリカ軍への投降を認める」という基本方針が決められた。この方針はすぐに東條から昭和天皇にも上奏され、民間人を非常に心配していた昭和天皇はこの方針を聞いて満足したという。しかし東條や佐藤はこの方針について「このことに対しては、直接の課長までとす」「個人または軍の意見の如く流布するのは不可」として、正式な命令や指示としてサイパンの各部隊に伝えることはしなかった。 日本本土でこのような決定がなされたことを知る由もない民間人は戦闘の中を逃げ惑ったが、戦闘の末期になると、多くの民間人が軍と共に島の北部に追い詰められ、バンザイクリフやスーサイドクリフから海に飛び込み自決した。なかには、親が子供を殺した後に崖から飛び降りたり、小学生が車座になって座り手榴弾で集団自決をすることもあった。多くの民間人が軍民一体、兵士と共に逝くことが祖国への忠誠と教え込まれてきた結果であり、民間人の最期の様子はアメリカの従軍記者によって雑誌『タイム』に掲載され、世界中に配信された。特に入水自決の一部始終を撮影したフィルムは1シーンしかなく、入水者は会津出身の室井ヨシという婦人であった。海兵隊員は目の前で繰り広げられる民間人の集団自決に衝撃を受け、特に自決前に行う儀式に目を奪われた。3人の若い日本人女性は多くの海兵隊員が見ている前で岩場に悠々と腰掛けると、長い黒髪を落ち着いた様子で櫛で整え始めて、整髪し終わると両手を合わせて祈りながらしずしずと海に向かって歩いていきそのまま入水自殺を遂げた。その様子を目撃したアメリカの従軍記者は、テルモピュライの戦いの前に、スパルタのレオニダス1世やその部下たちが決死の覚悟で執り行ったとされる儀式を連想したという。また、ある100人の集団は、全員が服を脱いで海中に入って身を清めると、平らな大きな岩の上に日本の国旗を広げ、その国旗の上で指揮役の男から配られた手榴弾で全員が自爆して果てた。 アメリカ軍は島内の民間人を保護する旨の放送を繰り返していたが、ほとんど効果がなかった。これは、退避中の民間人がアメリカ軍による無差別攻撃により死傷者を出していたことも影響した。志願で従軍看護婦となった民間人女性菅野静子も、アメリカ軍が日本軍負傷兵であふれていた野戦病院を火炎放射器で焼き払ったり、命乞いする日本軍負傷兵を殺害するところを目撃しており、捕まったら絶対に殺されると確信していたという。菅野は日本軍の最後の総攻撃のあと、野戦病院で手榴弾で自決をはかったが、重傷を負ってアメリカ軍に収容されており、のちに「ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン」紙に「サイパンのジャンヌ・ダルク」として報じられている。その記事には「日本軍最後の玉砕地点で発見したのは、意外にも、手榴弾で自決をはかり下腹部に重傷を負っていたWAC(女性兵士)だった・・・この勇敢な“女戦士”のヤマト・ダマシイに強く心をうたれた」と書かれていたという。また、民間人は軍からアメリカ兵に捕えられたら殺されるのだから、自分から死ぬ方がよいと教え込まれており、自決を禁止しなかったことも犠牲が増えた原因と指摘されている。この点、テニアンの戦いでは日本軍が民間人に対し自決行為を強く戒めた事が効果を出し、民間人の自決行為が少なかったのと対照的である(異論がある。詳細はテニアンの戦い#戦闘後)。 しかし、サイパンで収容した日本人の民間人を調査したアメリカ軍の報告書によれば、投降した民間人の中では自決を考えていた割合は低く、なかなかアメリカ軍に投降しなかった最大の理由は軍に殉ずるなどといった愛国的な理由よりむしろ「捕まったら拷問されるから」であり、それを信じていた比率は収容者の70%以上であった。民間人が拷問されると信じたのは、軍の指導や教育というよりは、戦争中の戦意高揚のため朝日新聞、婦人公論、雑誌キングといったマスコミが、ガダルカナルの戦いでの報道を基に「男や子どもたちは戦車やスチームローラーによって轢き殺され、女たちは船に連れて行かれて兵士や水兵らの慰みものにされるだろう」などと真偽不明のセンセーショナルな記事を報じ、それを読んで真に受けた日本軍将兵が、民間人に話して広まってしまったからであった。また、ある新聞では、アメリカ新聞紙面に掲載された、アメリカ軍戦車に取り付けられた日本兵の頭蓋骨の写真を紙面に転載して、アメリカ人に対する憎しみと恐怖を煽ったり、海兵隊が「日本兵狩猟許可証」を無料の弾薬や武器と一緒に受け取っているなどと、アメリカ軍人向けに描かれたフィクション漫画を翻訳付きで紙面に載せ、それを目にした民間人は、海兵隊員が捕虜になった日本人をもっともおぞましい拷問すると思い込み、海兵隊員を最も恐れていたという。 以上の状況から、捕らえられるよりは自決を選んだ民間人が入っていない統計にはなるが、民間人の投降を妨げた最大の要因は「アメリカ兵に対する恐怖」であったことが判明した。また、投降に至った手段としては、「よく知っている人または親戚の呼びかけ」で80%近くにもなった。逆にアメリカ軍が繰り返していた放送やビラによる投降呼びかけに応じたのは20%にも満たず、今後の日本人住民保護の参考として活かされることとなった。なお、日本の軍人の中には、アメリカ軍による意図的な民間人虐殺を目撃したと証言する者もあるが、信憑性は疑問視されている(詳細は#アメリカ軍の虐殺行為に関する田中徳祐の証言で後述)。 日本国内では大本営により「おおむねほとんどの民間人は軍と運命をともにした」と発表され、当時の日本の新聞各紙も上記『タイム』の記事を引用して民間人の壮絶な最期を記事にした。また、藤田嗣治によるサイパンの民間人の最後を描写した絵画「サイパン島同胞臣節を全うす」が制作展覧された。
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集団自決
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 06:17 UTC 版)
詳細は「沖縄戦における集団自決」を参照 サイパンの戦いなどと同様に、沖縄戦においても一般住民までが集団で自殺する集団自決が発生した。読谷村のチビチリガマの事例(83人)などが知られ、集団自決者の総数は1,000人以上とする研究者もいる。 これらの集団自決を軍の命令によるものとする主張がある一方で「集団自決は沖縄住民による戦傷病者戦没者遺族等援護法の給付を目的とした嘘である」との証言も一部に存在する。
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集団自決
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/11 01:49 UTC 版)
8月26日夜明け、酒に酔ったソ連兵たちは短機関銃を空に乱射しながら女性たちが監禁されている各部屋に乱入すると、女性たちの顎をつかみ顔を確認しながら、気に入った女性たちを連れて行こうとした。女性たちは金品を渡したり、許しを懇願したが聞き入れられず、次々に引きずり出されていった。各部屋からは女性たちの悲痛な叫びがあふれたが、ソ連兵は構うことなく短機関銃を乱射し続けていた。このため、女性たちは頭を丸坊主にしたり、顔に墨を塗るなどしたが、ソ連兵による強姦は朝になっても収まることはなく、部屋に乱入すると女性たちの胸部をまさぐるなどして気に入った女性たちを何度も連行していった。社宅と塀を隔てた工場に残されていた男性社員たちは、社宅の異変を察知するとソ連兵の監視をかいくぐり塀を乗り越え社宅に潜入したが、厳重な警戒が敷かれている独身寮には近づくことができなかった。ソ連兵たちは狼藉を続けるうちに女性たちの部屋の廊下に監視兵を置くようになったため、御不浄や食事もままならないようになった。女性たちは自身のおかれている状況や絶え間ない銃声から、すでに男性社員たちは皆殺しにあったのではないかと考えるようになった。ソ連兵による女性たちへの昼夜に渡る暴行は8月27日の深夜になっても収まることはなかった。このため、28人の婦女子が集められていた部屋では自決をするべきか議論がなされるようになった。議論中にもソ連兵の乱入があり、隣室からも女性たちの悲鳴や「殺して下さい」などの叫び声が聞こえてきたため、自決することに議論が決した。隠し持っていた青酸カリが配られ全員が自決を図り、23人が死亡、5人が死に切れずに生き残った。他の部屋ではソ連兵に引きずり出されるときに剃刀で自殺を図った女性もいた。 8月27日早朝、ソ連兵が集団自決を発見し、将校に報告されると各部屋にはソ連兵の見張りが付けられ、女性たちは外を見ることを禁じられ、遺体はどこかへ運び去られた。責任を問われることを恐れたソ連軍将校によって、これ以上の暴行は中止されることとなった。
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集団自決
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/06 08:12 UTC 版)
東寧重砲兵連隊長の渡辺馨大佐は、日本のポツダム宣言受諾を知らされると部隊の集団自決を決定した。南陽の連隊主力では、連隊長による終戦の詔書奉読と訓示の後、決別の宴が催された。8月17日、連隊本部、第2大隊本部・第4中隊および連隊の移動用に配属されていた独立牽引車第15中隊の3グループに分かれて自爆による集団自決は決行された。南陽にいた部隊のうち第2中隊だけは中隊長が単独で先に自決していた影響で集団自決に参加しなかった。 連隊本部などの114人は黄色爆薬各30kgなどを積んだトラック12両に分乗して円陣を組むと、中央で連結された導火線に点火することで全車一斉爆破し、連隊長以下80人が死亡。第2大隊本部・第4中隊の132人は装備火砲の砲車に分乗してそれぞれ自爆を図ったが、2号車は不発だったため死者は第2大隊長飯田常雄少佐以下66人と半数であった。独立牽引車第15中隊の79人は砲兵トラクター5両とトラック1両に分乗して自爆し、うち46人が死亡した。事態を知った第79師団司令部から中止命令が出されたが、全体で325人が参加して192人が死亡する惨事となった。 なお、東寧重砲兵連隊のほか、同連隊の配属先だった第79師団では工兵第79連隊も2日後の8月19日に集団自決を図った。工兵第79連隊では下士官・兵らを帰国のため朝鮮半島へ脱出させた後に、本村太郎少佐以下の連隊本部の幹部5人が自決。さらに第3中隊は若年者などを帰国に向かわせたものの、残る加藤文平中尉以下約40人が水口浦西方高地で集団自爆して死亡した。
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集団自決
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 05:01 UTC 版)
玉音放送から8日後の1945年(昭和20年)8月23日午前11時頃、会長の日比和一以下、明朗会関係者12人が皇居前で集団自決した。二列縦隊に並んで宮城遥拝後、11人は短刀で割腹したうえ喉を突いて自決し、それを見届けて、最後に日比和一は拳銃で自らの頭部を撃った。通りがかった警察官が発見し、救急車を手配したが全員死亡した。自決者には、第102号哨戒艇の元艇長だった水谷保海軍少佐ら船員のほか、明朗会に共鳴した伊地知三郎陸軍少佐、明朗会本部の女性事務員1人も加わっていた。 この点、11人の死因について、毒薬のシアン化カリウムを服用したことによるものであり、水谷保の遺族の保管する海軍軍医署名の死亡診断書にもその旨が明記されているとする説もある[要出典]。同説によれば、短刀で自決したというのは、水谷保らを慕う当時の部下たちが、死を悼んで創作した話であるという。 自決者達のそばには「一死以て、皇運の無窮を祈念し奉る」という遺書が残されており、埋葬料が添えられていた。事件前日には、過激行動を警戒していた警視庁に対し、自分たちに関しては心配いらない旨の申告をしていた。また、明朗会に事務所を貸していた弁護士に対して、「空軍将校たちも終戦に納得して、自分たちのなすべきことは済んだ」旨を自決者の一人は語っていたという。 遺体は、明朗会と関係の深かった井上清純の菩提寺である大長寺(麻布永坂町)に埋葬された。その後、府中市若松町へ移転した大長寺の境内に、明朗会十二烈士忠魂碑が建立され、遺骨も埋葬されている。
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