証拠調べ
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 07:44 UTC 版)
「藤沢市母娘ら5人殺害事件」の記事における「証拠調べ」の解説
被告人Fの身柄は初公判後、横浜拘置支所(横浜市港南区港南 / 横浜刑務所に隣接)へ移送された。 第2回公判は1982年11月30日に開かれた。同日はX・Y両事件の審理が行われ、検察官の冒頭陳述・被告人Fの罪状認否が行われた。同日、弁護人は藤沢事件と同じく、両事件について「自白調書は別件の脅迫容疑で逮捕・勾留されている際に作成された。別件逮捕が違法である以上、自白調書に証拠能力はない」として無罪を主張したほか、「強制的・拷問的な取り調べを受けた調書には任意性もない」と主張した。その後、検察官がX・Y両事件や余罪の窃盗事件について冒頭陳述を行ったが、小川が閉廷を告げたところ、Fは「言いたいことがある」と発言を求め、「取り調べを担当した警官6人は自分をうそ発見器(ポリグラフ)にかけ、言いたくないことを言わせたり、激しい暴行を加えるなど、基本的人権を蹂躙するような取り調べをした」などと発言した。第3回公判(1982年12月23日)では証人として神奈川県警の鑑識課員・尼崎中央署員がそれぞれ出廷し、実況見分調書に関して証言した。 1983年(昭和58年)1月13日に開かれた第4回公判では、X事件の実況見分調書に関して当時の戸塚署員が証言を行ったほか、被害者遺族である男性D(A・B姉妹の父親でCの夫)も証人として出廷した。第5回公判(1983年2月3日)でも、前回から引き続き男性Dの証人尋問が行われ、DはFが一家皆殺しを決意した日(1982年5月8日)夜の出来事について証言し、さらに検察官・裁判長から「(被告人Fについて)どう思うか」と質問され、「妻子と同じように殺してやりたいと思う」と答えた。しかしこれに対し、証言台の後ろ(被告人席)にいたFは「冗談じゃねえよ、やっちゃあいねえよ」「拷問だ」などと叫び、小川裁判長から退廷を命じられた。 第6回公判(1983年3月7日)では、被告人Fによる被害者Aへのつきまとい行為を立証するため、茅ヶ崎高校の事務職員・担任教諭と、5月8日の通報でA宅に駆け付けた藤沢署員の計3人が出廷した。同日、Fは小川裁判長から「勝手な発言をしないように」と注意されたが、証人の証言中に何度も発言を求め、最終的に小川から再び退廷を命じられた。Fが退廷させられた後、被害者少女Aの担任は「Aは人を疑うことを知らない性格で、(Fからの)逆恨みで殺されたとしか思えない。『自分を大事にすることは、相手の立場に立って理解することだ』と教えたことが仇になってしまった。これから『見知らぬ人に声をかけられた時の対応』などをどうやって教えていけばいいのか」と述べた。 第7回公判(1983年3月31日)では3人(藤沢事件直後にFとYを乗車させたタクシーの運転手ら)が証人尋問を受けた。同日、弁護人が「5分程度、Fの言い分を聞いてほしい」と求め、小川は陪席裁判官2人と協議した上で発言を許可したが、Fは「拘置所内で腹が痛くても寝かせてもらえなかったり、担当(の刑務官)から暴行を受けたりした。自分の身分を保証してほしい。」などと訴えた。その後、Fはそれまでのような不規則発言はしなかったが、前回および前々回公判で見送られていた証拠物採用に当たり、「凶器の包丁・くり小刀」「切断された電話線」「被害者少女Aの日記帳」などに関して、それぞれ黙秘する旨を表明した。 第9回公判(1983年5月17日)では警察官など、事件関係者5人が証人として出廷し、被告人Fが犯行時に使用した手袋が大磯駅付近のトイレから発見された経過などを証言した。しかし同日、Fは突然発言を求め、「弁護人(本田)を解任したい」と訴え、小川から諭されても「弁護人を変えてくれなければ、次回は出廷しない」などと譲らなかった。最終的に、小川は被告人Fに対し、(弁護人の解任申し立ては)理由を書き、上申書として裁判所に提出するように伝えた。結局、藤沢事件から1年が経過した第10回公判(1983年6月2日・証人尋問)でも本田は解任されず、Fも不規則発言などはせず、神妙に公判に臨んだ。しかし、当時のFは裁判長宛てに拘置所内での出来事や、法廷での公判内容の不満を上申書に書き、横浜地裁へ送ることが唯一の楽しみになっていたため、本田は『読売新聞』の取材に対し「最近のFの言動は自分にも理解できない」と困惑していた。第11回公判(1983年7月21日)では神奈川県警鑑識課員らが証人として出廷し、母娘3人殺害事件の現場から採取された指紋・足跡などの鑑定について証言した。それまでの公判で弁護人はほとんどの証拠採用に同意しなかったが、証人の証言・検察官により提出された物的証拠、Fが犯行時に手に負った傷の鑑定などにより、事件の全容は解明されていった。 初公判から丸1年となる1983年10月11日に第13回公判が開かれ、被告人Fの実母が検察側証人として出廷した。同日、Fの母は息子の交友関係などについては特に躊躇なく証言したが、「藤沢事件当夜の息子の行動」に関して「Fは事件当夜、自宅に帰ってきたのか?誰と一緒に帰宅したのか?」「手に怪我をしていたのか?」など、事件の核心に触れる質問をされると証言を拒否し、事件直後に自らが述べた検察官調書の内容についても「記憶にない」と繰り返した。しかし、小川裁判長が改めて検察官と同じような質問をすると、一転して「息子は事件当夜、自宅に帰ってきた。右手親指腹・左手首の怪我には薬を塗ったが大した怪我ではなかった」などと明確に回答した。その後、検察官の質問が再開された際には証言を拒否しなかったが、検事調書の内容に関して「事件直後の調べに対し『帰宅した息子が被害者母娘の殺害を告白したため、自首を勧めたが聞き入れられなかった』と述べたことに間違いはないか?」と再度質問されると、「殺人の告白・自首を勧めた事実ともにない。しかし警察の話から『3人を殺したのはFではないか?』と思い、夫と心中しようとした」と証言した。続く第14回公判(1983年10月31日)では被告人Fの実父が証人として出廷し、事件当時の様子に関しては妻(被告人Fの実母)とほとんど同様の証言をした。また、Fの生い立ちに関しては「息子には親としての愛情を注いだが、成長するにつれて持て余し気味になり、息子の行動にあまり関与しなくなった」、「息子が家にいると、常に家庭内が不穏な状態になり、少年院入院時には平穏を取り戻していたが、息子の性格は少年院を退院する度に悪化していった。自分たちにも『なぜ手が付けられない性格に育ったのか?』という原因は思い当たらず、息子自身の生まれつきの性格としか思えない。息子が成長するとともに、親子喧嘩の際も自分が圧倒されるようになり、家族が危険な状態に陥っていった。息子が真犯人でないことを願ってはいるが、親としての愛情は感じていない」と証言した。 1984年(昭和59年)4月26日に開かれた第20回公判で、陪席裁判官2人の交代に伴う公判手続きの更新が行われ、検察官が改めて起訴状に基づく公訴事実の要旨を述べた。被告人Fにもそれに対する陳述機会が与えられたが、被告人Fは「初公判の際、法廷でVサインをしたのは、同じ留置場に入っていた暴力団組員から脅されたためだ。被害者5人を殺害した真犯人は茅ヶ崎市内在住の人物で、いずれの事件も数人の人間から目撃されているし、自分も事件現場でその人物を目撃していた。留置場で前述の暴力団組員にその事実を話したところ、その組員から『俺の親戚の名前を聞き出したらただでは済ませない。地下室で拷問してやる』と脅されたため、今まではこのことを話さなかった。自分は無実だ」と陳述した。さらに第23回公判(1984年7月24日)で被告人Fは、被害者一家のことは自分は知らない。真犯人は(第20回公判で言及した)前述の茅ヶ崎の人間で、真実を喋ればあいつに殺されるから黙っていた」と陳述した。遠藤允 (1988) は一連のFの発言について、「当時、Fは常識の枠を超える夢想発言をしていたが、もしかすると拘禁症状(ノイローゼ)を発症していたのかもしれない」と評している。 藤沢事件に関する審理は同年秋までに終了し、X・Y両事件の審理に移行した。さらにその後、1985年(昭和60年)秋には殺人3件のほかに起訴されていた窃盗(ひったくり)に関する審理へ移行した。
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「東池袋自動車暴走死傷事故」の記事における「証拠調べ」の解説
第2回公判(2020年12月3日)では事故を目撃した3人の証人尋問が行われ、3人はいずれも「事故当時、加害車両は相当な速度を出しており、減速した様子はなかった。ブレーキランプも点灯していなかった」という趣旨の証言をした。一方、弁護人は第3回公判(12月14日)で行われた冒頭陳述にて、検察官の主張に反論する形で「被告人はアクセルを踏んでいなかったにもかかわらず、エンジンの回転数が上がって車が加速した。被告人はアクセルを目視で確認してブレーキを踏んだが、車は減速しなかった」「電気系統のトラブルでブレーキが利かなかった可能性は否定できず、踏み間違えの過失は認められない」と主張した。 2021年(令和3年)1月19日に開かれた第4回公判では検察側証人として、事故解析を担当した捜査員(警視庁の交通事故解析研究員)が出廷し、「被告人の車は事故現場手前から、事故現場へ向かうにつれて次第に加速していった」と証言した。また、第5回公判(同年2月1日)では事故の鑑定書を書いた捜査員(警視庁交通捜査課)が証人尋問で「事故車両のデータ記録にはアクセル・ブレーキの電気系統の故障記録は確認できなかった。また、事故で破損した箇所を復元するなどして走行させたところ、ブレーキは利いた。仮に電気系統に異常があったとしても、ブレーキペダルを踏めば減速できたはずだ」「事故車両は事故当時、現場直前で最もアクセルを強く踏み込んでいた」と証言した。 第7回公判(2021年4月27日)で被告人質問が行われ、被告人は「事故を起こした際、パニック状態になった」と述べた一方、アクセルを踏んでしまった可能性は否定し、「ブレーキを踏んでいたのに、車は減速しないどころか更に加速した」と主張した。検察官および弁護人による被告人質問は同日に終了し、第8回公判(2021年6月21日)では、妻子 (A・B) を亡くした男性Cや、Aの父親D(Bの祖父で、Cの義父)、そして事故で負傷した被害者の代理人弁護士3人がそれぞれ、被害者参加制度を使って被告人質問を行った。Cは同日、被告人に対し、「刑務所に入ってほしい」と訴えたほか、前回公判で飯塚自身が語った記憶違いや、「ブレーキが効かなかった」という主張について「無理があると思わないのか」などと問い質したりしたが、被告人は電気系統のトラブルがあったとする趣旨の主張を繰り返した。また、Dは「自分の過ちを認めて欲しい」と訴え、負傷した被害者の代理人弁護士も「(事故は)誰の責任か」と質問したが、被告人は「責任はいろんな意味があるのでわかりません」と答えた。閉廷後、Cは記者会見で、自身の運転ミスを認めなかった被告人について「心から軽蔑した」と述べている。
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「司ちゃん誘拐殺人事件」の記事における「証拠調べ」の解説
第2回公判(1980年11月18日)では証拠調べが行われ、検察官が身代金要求電話の録音テープや、Aの遺族の供述調書、目撃者および関係者(数百名)の供述調書、Kが犯行動機などを語った供述調書などを証拠申請。主任弁護人の堀内が、一連の証拠の採用に同意したため、芥川裁判長はすべての証拠を採用した。その後、検察官により、身代金要求の電話の音声を録音したテープが法廷で再生された。また、弁護人はKの精神鑑定を実施するよう申請したが、検察官が反対したため、留保された。同年12月8日、誘拐現場や殺害・死体遺棄現場などの現場検証が実施された。 1981年(昭和56年)1月13日に開かれた第3回公判では、証人調べと被告人質問が行われた。検察側証人としてAの父Bが出廷し、前年12月に名古屋市で発生した女子大生誘拐事件にも言及した上で、同種事件の再発防止のため、死刑適用を求めた。一方、弁護側証人としてKの前妻(事件後に離婚)も出廷し、「Kは事件前から、何の理由もなく突然殴りかかったり、親戚が集まっているのに突然姿を消して隣室で読書を始めるなど、奇行が度々あった」と述べ、Kの精神状態を疑問視する見解を示した。同日、弁護人が改めてKの精神鑑定を実施するよう求めたところ、甲府地裁は同月22日付で、精神鑑定の採用を決定した。 福島章(上智大教授)による精神鑑定は、同年2月7日から実施され、同年8月まで続いた。その結果は「Kは粘着性気質で、性格的に未熟な自己顕示性を有していたと認められる。しかし、知能は正常平均値で、知的欠陥や幻覚・妄想・自我障害・感情障害などといった精神薄弱、精神分裂病および躁鬱病の疑いも認められない。また本人だけでなく、近親者にも精神分裂病に罹患した者はいない。もっとも、Kの長女が事件後、痙攣発作を起こしたことから、てんかんの遺伝負因ということが問題とされる余地があるが、K自身にはこれまで痙攣の発作などの症状はなく、脳波検査の結果も全く正常で、K自身にてんかんの疑いがあるとまではいえない」として、「Kの精神状態には現在も過去も病的というべき障害はない」と結論づけるものだった。 第4回公判は1981年10月1日に開かれたが、弁護側は「鑑定書は、Kの言っていることが考慮されていない」として、検察官が申請した精神鑑定書の証拠採用に同意しなかった。同日の被告人質問で、Kは弁護人からの「130万円の借金を返せるだけの売掛金があったのではないか」という質問に対し、「犯行の前から借金を払わなければならないと思い、夜も眠れず、いつも誰かに見られている気がした」と述べた上で、情状面に関する質問では、「毎日、読経を上げたり、時には線香を上げさせてもらっている。生きて罪の償いをしたい」と述べた。続く第5回公判(1981年11月24日)では、証人として出廷した福島が、弁護人の反対尋問(Kの意識障害や鬱の症状の有無、動機の異常性などに関する尋問)に対し、「Kが殺害の状況をはっきり覚えていないとしても、意識障害があるとは限らない。躁鬱病の症状は理由もなく自殺したいと思うことが特徴だが、Kにははっきりした(自殺を図る)動機がある」などと証言し、「鑑定結果に疑いを挟む余地はない」と断言した。 第6回公判(1981年12月17日)で、Kの元妻と、被害者Aの母親がそれぞれ証人として意見陳述し、予定されていた証人尋問は終了した。1982年(昭和57年)1月12日に開かれた第7回公判で、K側は「福島鑑定は事実関係に誤りが多く、鑑定方法も安易だ」として、再度の精神鑑定を行うよう申請したが、甲府地裁は「『Kには完全責任能力があった』とする福島鑑定の結論に疑いの余地はない。この依頼を行った理由は、Kの責任能力に疑いを挟むためというより、審理の慎重を期すためだった」として、申請を却下した。また同日、最後の被告人質問が行われ、Kは弁護人や検察官の尋問に対し、「被害者には申し訳ないと思う。毎日冥福を祈り続けている」「なぜ誘拐を急に思いついたのかはわからない。初めから誘拐するためにAに近づいたわけではなく、誘拐後もAを返すつもりだったが、泣かれたから殺害した」などと答えた。
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証拠調べ
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冒頭手続が終了した後に、証拠調べが開始される(第292条)。 詳細は「証拠調べ」を参照 証拠調べの始めには、検察官は証拠により証明すべき事実を明らかにしなければならない(第296条)。これを冒頭陳述(ぼうとうちんじゅつ)という。 次いで、検察官が証拠調べを請求し、弁護人(被告人)がこれに対する意見を述べ(規則190条2項)、これに基づいて裁判所が証拠の採否の決定(証拠決定)を行い(同条1項)、採用された証拠については証拠調べが行われる。その後弁護人(被告人)の証拠調べ請求が行われるのが通常である。 証拠書類については、証拠調べの方式は朗読が原則である(第305条1項)。ただし裁判長が相当と認めるときは要旨の告知をもって代えることができ(規則203条の2第1項)、実務上はほとんどこの要旨の告知によって行われている。 証拠物については、証拠調べの方式は展示である(第306条1項)。 人証の取調べは尋問(証人尋問、鑑定人尋問等)によって行われる。法律上その順序はまず裁判所、ついで当事者と規定されているが(第304条1項、2項)、この順序は裁判所が相当と認めるときは変更でき(第304条3項)、実務上は請求当事者が先に尋問し、次に相手方の当事者が反対尋問を行い、最後に裁判所が補充尋問を行うという順序が定着している。
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