罪状認否
罪状認否
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 09:06 UTC 版)
同年5月6日、大川をのぞく被告全員が無罪を主張した。この罪状認否手続きは定型の手続きであって、無罪を主張するのは普通に見られることである。フィルムでみる限り、全体に厳かに行っているように見えるが、そのときの様子を毎日新聞記者はラジオで「傲然たる態度」と形容し、読売新聞記者も同様の形容をしている。 なお、罪状認否手続きは欧米法における手続きであり、裁判官の「有罪か無罪か(Guilty or Not Guilty)」の問に対して、被告が「無罪(Not Guilty)」と答えることにより、事件の事実に関する審判(事実審)をし、「有罪(Guilty)」と答えると、検察側の主張を認め、量刑のみを行う(法律審)と言う法廷慣習である。東京裁判でこの慣習が厳密に適用されるものではないが、被告人らの目的の一つである、法戦と称する、いわば法廷闘争の為には、被告人自身の無罪の主張が必要となる。とはいえ、被告人らはそれぞれ自身の訴因一つ一つについて、本来は其々自由に認否を行うことができ、全て一律に認否を揃えなければならないものではないし、また、その認否がなにか他人を拘束あるいは影響するものでもない。また、そのことをよく理解して行えるよう、GHQ側はもともと一人一人に専任弁護人を付けている。城山三郎『落日燃ゆ』において、開廷前に広田弘毅が「無罪とは言えない」と抵抗するのを弁護士団が説得するエピソードが語られている(ただし、この小説は広田をドラマチックに美化して書かれているものであるため、どこまで事実かは検討の要がある)。
※この「罪状認否」の解説は、「極東国際軍事裁判」の解説の一部です。
「罪状認否」を含む「極東国際軍事裁判」の記事については、「極東国際軍事裁判」の概要を参照ください。
罪状認否
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 08:35 UTC 版)
大分地裁における初公判の期日は1982年(昭和57年)4月26日に決まり、その約10日前に弁護団に対して関係書類の開示が行われた。この時初めて輿掛の供述調書を見た弁護団は、驚き困惑した。新聞報道等では「全面自供」と報じられていたにもかかわらず、輿掛の供述は、「気付いたら203号室で被害者の遺体のそばに立っていた」、侵入経路や犯行状況は一切覚えていないが「自分が犯人に違いない」というとても「自白」とは呼べないようなものであった。 弁護団は、この中で精神鑑定書に記された麻酔面接に注目した。麻酔面接で用いられたのは、ナチスが自白剤として使用したことで知られているイソミタールであった。輿掛は、3月6日にイソミタール10%溶液5ccを注射されて医師の面接を受け、この麻酔下の面接で、「物音に気付いて隣の部屋に行ったら被害者が倒れていた」「玄関の明かりはついておらず、和室の明かりはついていた。被害者は台所に倒れており、首には何か白いものが巻かれていて、顔は白い布のようなもので覆われていた。下半身は裸だったんじゃないかと思う。寝ているならセックスしようと被害者の下半身を触ったが、死んでいるのに気付いて慌てて自室に帰った」という内容を話した。そして、2日後に行われた麻酔の影響のない通常の面接でも概ねこれを認めている(ただし、これについては鑑定後の警察官の取り調べに対して「そのような覚えはない」と否定している)。これが事実であるとすると、犯行状況を覚えていないという輿掛の供述はもっともであったし、現場から輿掛の体毛が発見されたことも説明がつく。弁護団は、イソミタール面接での輿掛の供述を軸に、強姦・殺人については証拠がないとして無罪を求める弁護方針を立てた。 初公判を翌々日に控えた4月24日、古田・徳田両弁護士は輿掛と接見し、徳田弁護士は輿掛に「君は酒を飲んで寝ていて記憶がないということなのでベストを尽くして弁護するが、審理の中で君が犯人だと明らかになった時には潔く極刑に服してほしい」ということを伝えた。輿掛は、「その時は覚悟しています」と答えた。 4月26日、大分地裁で第1回公判が開かれた。輿掛は罪状認否で「被害者の部屋にいたことは覚えているのですが、自分がやったという記憶がありませんので、はっきり分かりません」と述べ、弁護団も意見陳述で「被告人に犯行当時の記憶がないということであり、検察官請求予定の証拠では本件の証明は不十分と思料されますし、有罪とは言えないと考えます」と主張した。この罪状認否について、続く第2回公判で、近藤道夫裁判長から改めて「被害者の部屋に『行った』ことを覚えているのか、『いた』ことを覚えているのかどちらですか」という質問をされ、輿掛は「『いた』ことと、すぐ自分の部屋に帰ったことは覚えている」旨を答えた。
※この「罪状認否」の解説は、「みどり荘事件」の解説の一部です。
「罪状認否」を含む「みどり荘事件」の記事については、「みどり荘事件」の概要を参照ください。
罪状認否
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 13:57 UTC 版)
「寝屋川市中1男女殺害事件」の記事における「罪状認否」の解説
一方で、Aについては「殺すつもりはなかった。大声を出すので、静止しようと思い口を抑えていたところ、手がずれ込んでしまい首を絞めていた。ショックを与えると蘇るかと思い、カッターで傷つけた」と殺意を否定し傷害致死を主張。 Bについては「車内で痙攣を起こし、熱中症などの体調不良で動かなくなった」と無罪を主張して、起訴内容を否認した。 2018年11月6日、2人の死因を鑑定した法医学者が証人尋問で「絞殺された被害者に見られるピンク色の歯の特徴ほか、頭蓋底のうっ血もあった」と証言。Bの側頭部に殴られた時にできるような内出血があったことも明らかにした。 2018年11月19日に公判にて行われた被告人質問で、山田は逮捕当初「車内に同乗者がいた」と供述したことについて「当時は頭の中が混乱していた」と述べ、供述が虚偽だったことを認めた。また、少年Bを遺棄した場所の周辺にコンドームなどがあった事については、「大阪市内のサウナで、ごみ箱から他人の精液が入ったコンドームやティッシュを拾った。柏原市の現場で少年のズボンにコンドームを入れようとしたが、腐敗が進んでいたので、近くに置くだけにした」と答え、「他人のせいにしたかった」と偽装工作を認めた。
※この「罪状認否」の解説は、「寝屋川市中1男女殺害事件」の解説の一部です。
「罪状認否」を含む「寝屋川市中1男女殺害事件」の記事については、「寝屋川市中1男女殺害事件」の概要を参照ください。
罪状認否
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 13:45 UTC 版)
麻原は公判の初期や、裁判と同時期(1996年5月)に行われたオウムへの破壊活動防止法適用を議論する弁明に出席した際には、宗教的な難解な話を始めることはあったものの饒舌であり、まともな受け答えを行っていた。 だが1996年10月18日の井上に対する弁護側反対尋問の際に、麻原は井上への尋問の中止を頑なに要求。弁護団も延期を要請したが検察と裁判所に拒否された。以降、突如英語で話し始める、居眠りをするなどの行動(後述)を繰り返すようになり、しばしば裁判長から注意や退廷命令を受けた。麻原は「退廷ですか?それはありがたい」「とんでもないことをやっている教祖とは何だ」などと応酬した。 当初は起訴案件の罪状認否に関しては留保したが、1997年4月24日の公判で麻原は罪状認否を行い、起訴された17事件のうち16事件で英語を交えながら以下の通りに無罪を主張した(駐車場経営者VX襲撃事件のみ留保)。「麻原は事件について語らなかった」とされることもあるが、実際には(整合性のない言葉と不自然な英語で)事件について語っており、事件をオウムが起こしたことは認めつつ弟子の責任とした。 男性信者殺害事件 - ロープで殺せと指示していないので無罪 坂本堤弁護士一家殺害事件 - 実行犯が5、6人ぐらいなので、罪も5分の1、6分の1になるので無罪 薬剤師リンチ殺人事件 - 殺害の指示をしていない、被害者も悪いので無罪 男性現役信者リンチ殺人事件 - 被害者が悪いので無罪 滝本太郎弁護士サリン襲撃事件 - サリンが非常に少ないので無罪 松本サリン事件 - 死んだのは犬、魚なので無罪 被害者の会会長VX襲撃事件 - 井上嘉浩が悪いので無罪 駐車場経営者VX襲撃事件 - 殴る蹴るよりVXの方が害が少ない。私も検察官からVXらしきものをかけられた 会社員VX殺害事件 - 山形明が悪いので無罪 公証人役場事務長逮捕監禁致死事件 - 治療が遅れただけなので無罪 地下鉄サリン事件 - 村井秀夫と井上が悪いので無罪 メスカリン・LSD・覚醒剤・チオペンタール製造事件 - 人類の進化・精神の進化のため仕方なかったので無罪 自動小銃密造事件 - 弾丸は製造しておらず無罪 サリンプラント建設事件 - 途中で中止しているので無罪 最後に麻原は、自身が原子力空母エンタープライズにいて米露の政府関係者・チベット僧・中沢新一らに語りかけている、既に釈放されており「裁判は遊び」、今日の日付は1997年4月24日ではなく1997年1月5日か6日、などと不可解な発言を付け加えた。
※この「罪状認否」の解説は、「麻原彰晃」の解説の一部です。
「罪状認否」を含む「麻原彰晃」の記事については、「麻原彰晃」の概要を参照ください。
「罪状認否」の例文・使い方・用例・文例
- 罪状認否のページへのリンク