極東国際軍事裁判とは? わかりやすく解説

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きょくとう‐こくさいぐんじさいばん【極東国際軍事裁判】

読み方:きょくとうこくさいぐんじさいばん

第二次大戦後、ポツダム宣言に基づき東京置かれた極東国際軍事裁判所で、日本主要な戦争犯罪人に対して行われた裁判194648年まで審理が行われ、死亡精神異常による免訴3名を除く被告25全員有罪とされ、うち東条英機ら7名は絞首刑東京裁判。→戦争犯罪A級戦犯ニュルンベルク裁判


極東国際軍事裁判

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/14 05:21 UTC 版)

極東国際軍事裁判(きょくとうこくさいぐんじさいばん、旧字体極東國際軍事裁判󠄁英語: The International Military Tribunal for the Far East、1946年(昭和21年)5月3日 - 1948年(昭和23年)11月12日)とは、広田弘毅東条英機内閣総理大臣など日本の指導者28名が「1928年(昭和3年)1月1日から1945年(昭和20年)9月2日」にかけて「侵略戦争」を起こす共同謀議を行い[1] 、「平和愛好諸国民の利益並びに日本国民自身の利益を毀損」したとして[1]平和に対する罪(A級犯罪)、通常の戦争犯罪(B級犯罪)及び人道に対する罪(C級犯罪)の容疑で裁いたものである。




「極東国際軍事裁判」の続きの解説一覧

極東国際軍事裁判

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:23 UTC 版)

木戸幸一」の記事における「極東国際軍事裁判」の解説

木戸日記 : 木戸被告人宣誓供述書 全文』極東国際軍事裁判研究会 [編集校訂]、平和書房,日本出版配給株式會社 [配給元]〈極東国際軍事裁判研究〉、1947年OCLC 26940318。 『東京裁判における木戸証言 : 軍政最後権謀をあばく旋風時代宮廷秘史キング出版社ニュース解説〉、1947年OCLC 673849467。

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極東国際軍事裁判

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 17:57 UTC 版)

大島浩」の記事における「極東国際軍事裁判」の解説

大島A級戦犯として起訴され最大理由は、日独伊三国同盟推進にあった。しかし法廷において大島は、「ヒトラーリッベントロップとは、ほとんど会わなかった」と、事実とは異な証言し、また三国同盟主導したことなど、自身不利になることには一切言及しなかった。判事による投票の結果大島は1票差で絞首刑免れ終身刑判決のもと巣鴨拘置所服役した大島後年態度一変し政治家であった広田弘毅などが死刑となったことについて、「(自分のほうが戦争へ責任が重いにも拘らず)こうして生きているのが、いつも申し訳ない気がしている」(1965年昭和40年)頃の発言)などと述べていた。

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極東国際軍事裁判

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東郷茂徳」の記事における「極東国際軍事裁判」の解説

戦争終結後東郷東久邇宮内閣外相として留任するよう要請されたが、「戦犯に問われれば、新内閣に迷惑がかかる」として依頼断り妻と娘のいる軽井沢の別荘隠遁した。しかし、「真珠湾騙し討ち責任者」という疑惑連合国側からかけられて、9月11日東條元首相とともに真っ先訴追対象者として名前が挙げられた。終戦翌年1946年5月1日巣鴨拘置所拘置されて、翌月には極東国際軍事裁判が開廷された。 弁護人には同じ鹿児島県出身であり、最初外務大臣時代外務次官だった西春彦(後の駐英大使)と、アメリカ人弁護団唯一の日系人であるジョージ山岡らが付き娘婿東郷文彦事務担当した裁判1947年昭和22年12月15日東郷個人反証入った。この日「電光影裏春風斬る」とその心境色紙したため臨んでいる。検事側東郷弁護人らの激し応酬繰り広げられた。特に巣鴨拘置所での嶋田繁太郎元海大臣とのやり取り開戦時の証言で「摺り合せ要求された」と東郷受け取った件)について紛糾して当時話題となった開戦時及び終戦時外相地位にあった東郷は、対米開戦の際海軍は無通告攻撃主張したが「余は烈しく闘った後、海軍側の要求国際法要求する究極限界まで食い止めることに成功した。余は余の責任いささかも回避するものではないが、同時に他の人々がその責任を余に押し付けんとしても、これに伏そうとするものではない。」と、如何に軍国主義者対立してきたかを、口述書に述べた。これに対して永野修身担当弁護人のジョン・ブラナンが、皆が無通告攻撃主張については知らないと言っていると追究対して東郷は「私はこれらの人々記憶力信頼しない。現にあれほど重大な11月5日御前会議対米交渉要求通らない場合12月初めに開戦することを決定した会議)のことを私が言うまで忘れていたではないか」と返したまた、ブラナンは海軍が無通告攻撃主張した証拠があるのか、と東郷質問した。すると、「裁判開廷してから、嶋田永野から、海軍奇襲をしたがっていたことは言わないでくれ、いえばためにならない」と脅迫受けた暴露したマスコミは、裁判開始後、これを初めての重大な対立捉え高橋弁護人嶋田弁護人)が「これで何もかも吹き飛んだ」と茫然としていたことを一部マスコミ報道している。この発言について嶋田は、翌1月証言台において、語った事実認めたもののそれは文字通り東郷の身を心配したもので「よほど彼の心中やましいところがなければ、私の言ったことを脅迫ととるはずかない。すなわち彼の心の中にはよほどやましいところがある。と言うのが一つの解釈。」また「まことに言いにくい事ではありますけども、彼は外交的手段使った。すなわち、イカスミ出して逃げ方法使ったと。すなわち言葉変えれば、非常に困って、いよいよ自分抜け道探すためにとんでもない、普通使えないような『脅迫』という言葉使って逃げたと。」と反論したマスコミはこれをイカスミ論争囃したてた。東郷個人としては、昭和において自分体験経験した事を全て公にする事によって日本、そして自分自身行動連合国側指摘するような「平和に対する罪」に該当する事を否定する事を主眼においており、もともと決し悪意あるものではなかったが、被告人の間でも見解異なる事も決し少なくなく、嶋田弁護人だった法制史学者瀧川政次郎始め被告人弁護人達の批判対象となったそれ以外にも、木戸幸一天皇和平を望む発言をしたことを自分伝えなかったこと、梅津美治郎前述通り本土決戦主張し和平拒み続けたことも述べた。特に梅津とは声を荒らげてやり合う場面見せ木戸に対しても、木戸担当弁護人のウィリアム・ローガンが尋問開始して発言止めず、しびれを切らしたローガンが「貴方は木戸好かないのでしょうと言う場面もあった。 このように結果的に自分立場のみを正当化する主張終始した見られたことを、重光葵は「罪せむと罵るものあり 逃れむと焦る人あり 愚かなるもの」と歌に詠んで批判している。 1948年昭和23年11月4日裁判所東郷行為を「欧亜局長時代から戦争へ共同謀議参画して、外交交渉の面で戦争開始助けて欺瞞工作行って開戦後も職に留まって戦争遂行尽力した」と認定して有罪とし、禁錮20年判決下された東郷は後に「法の遡及」を行い、「私には罪がある。戦争防げなかった罪だ。しかし東京裁判であげつらった罪は何も犯してはいない。戦争が罪と言うならイギリスインド併合アメリカハワイ併合の罪も裁け」と、東京裁判を「敗戦国戦勝国が裁く復讐見せしめ」とこの裁判強く批判する一方で国際社会法的枠組みによって戦争回避する仕組み必要性があり、新し日本国憲法第9条がその流れ結びつく第一歩になることへの期待吐露している。だが、1960年昭和35年)の日米安全保障条約改訂において、憲法第9条精神尊重することを重視して軍事的な同盟では平和がもたらされない考え西春彦石黒忠篤東郷親友当時参議院議員)らと交渉担当課長として日本の平和と安全のためには条約改訂欠かせないとする東郷文彦らが激しく対立して、後に文彦著書暗に西を非難するという、東郷遺志継ぎたいと願う人達が対立するという事態も発生している。 東郷以前から文明史の書を執筆して戦争いかにして発生するのかを解明したいという考え抱いていたが、心臓病悪化獄中生活のためにこれを断念し替わり後日文明史家に資するために自己の外交官生活に関わる回想録執筆獄中行い、『時代の一面』と命名する。だが、原稿がほぼ完成したところで病状悪化転院先の米陸軍361病院(現同愛記念病院)で病死した。享年69(満67歳没)。

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極東国際軍事裁判(東京裁判)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 02:21 UTC 版)

連合国軍占領下の日本」の記事における「極東国際軍事裁判(東京裁判)」の解説

1945年昭和20年8月8日英米仏ソの連合国4国がロンドン調印した国際軍事裁判所憲章に基づき極東国際軍事裁判所条例極東国際軍事裁判所憲章)が定められ同年1月19日連合国軍最高司令官マッカーサー元帥が極東国際軍事裁判所設立宣言した裁判1946年昭和21年5月3日から1948年昭和23年11月12日にかけて行われ憲章第6条A項が規定する平和に対する罪」に違反したとされる政治家軍関係者A級戦犯容疑で約100人を逮捕そのうち28人を起訴した裁判結果、7名が死刑16名の終身刑判決受けて処罰された。

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極東国際軍事裁判

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 07:18 UTC 版)

日本への原子爆弾投下」の記事における「極東国際軍事裁判」の解説

極東国際軍事裁判(東京裁判)において連合国側ニュルンベルク裁判東京裁判との統一性求めていたが、インドラダ・ビノード・パール判事はその不同意判決書の中で、日本軍による残虐な行為事例が「ヨーロッパ枢軸重大な戦争犯罪人裁判において、証拠によりて立証されたと判決されたところのそれとは、まったく異なった立脚点立っている」と、戦争犯罪人それぞれの指令下したニュルンベルク裁判認定されナチス・ドイツ事例との重要な違い指摘した上で、「(米国の)原爆使用決定した政策こそがホロコースト唯一比例する行為」と論じ米国による原爆投下こそが、国家による非戦闘員生命財産無差別破壊としてナチスによるホロコーストに比せる唯一ののであるとした。 同趣旨の弁論は他の弁護士によってもなされ、ベン・ブルース・ブレイクニー弁護人1946年5月14日弁護側反証段階冒頭で、アメリカ原子爆弾投下問題取り上げ、「キッド提督の死が真珠湾攻撃による殺人罪になるならば、我々は、広島原爆投下した者の名(ポール・ティベッツ)を挙げることができる。投下計画した参謀長カール・スパーツ)の名も承知している。その国の元首の名前 も承知している。彼らは、殺人罪意識していたか?してはいまい。我々もそう思う。それは彼らの戦闘行為正義で、敵の行為不正義だからではなく戦争自体犯罪ではないからである。何の罪科いかなる証拠戦争による殺人違法なのか。原爆投下した者がいる。この投下計画しその実行を命じ、これを黙認したものがいる。その者達が裁いているのだ。彼らも殺人者ではないか」と発言した。なおこの発言が始まると、チャーター定められている筈の同時通訳停止し日本語の速記録にもこの部分のみ「以下、通訳なし」としか記載されなかった。ブレイクニー弁護人は、1947年3月3日にも、原子爆弾明らかにハーグ陸戦条約第四項が禁止する兵器だと指摘した。またイギリスアーサー・S・コミンズ・カー検察官による「連合国がどんな武器使用しようと本審理にはなんらの関係もない」との反駁対し日本はそれに対して報復する権利がある、と主張した。 「極東国際軍事裁判」も参照 またパール1952年11月広島市訪問し講演世界に告ぐ」では「広島長崎原爆が投ぜられたとき、どのようないいわけがされたか、何のために投ぜられなければならなかったか」など、原爆投下強く非難した講演では、「いったいあの場合アメリカ原子爆弾投ずべき何の理由があっただろうか日本はすでに降伏すべき用意ができておった」「これを投下したところの国(アメリカ)から、真実味のある、心から懺悔言葉いまだに聞いたとがない」、連合国側の「幾千人かの白人軍隊犠牲にしないため」という言い分に対しては「その代償として、罪のないところの老人や、子供や、婦人を、あるいは一般平和的生活をいとなむ市民を、幾万人幾十万人殺してもいいというのだろうか」「われわれはこうした手合と、ふたたび人道平和について語り合いたくはない」として、極めて強く原爆投下批判した

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