バターン死の行進
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バターン死の行進(バターンしのこうしん、タガログ語: Martsa ng Kamatayan sa Bataan、英語: Bataan Death March)は、第二次大戦中の日本軍によるフィリピン進攻作戦においてバターン半島で日本軍に投降したアメリカ軍・アメリカ領フィリピン軍の捕虜が、捕虜収容所に移動する際に多数死亡した行進のことを言う。全長は120kmで、もともとはその半分弱は鉄道とトラックで運ばれる予定であったが計画を立てた当初の捕虜の予想数と、実際の捕虜の数に大きく違いがあり、結局約83kmの距離を3日間、1日平均14kmを難民と手ぶらの捕虜と20キロの装備品を持った監視の日本兵が歩いた。
- ^ a b トーランド (1970) 2巻「五部 失われた希望 3 バターンを埋める捕虜」「4 死の行進」241頁-256頁、347頁
- ^ (今井武夫『日中和平工作 回想と証言 1937-1947』みすず書房、2009年, 157-158頁)
- ^ 今井武夫『日中和平工作 回想と証言 1937-1947』みすず書房、2009年, 157-159頁
- ^ 林博史『裁かれた戦争犯罪 イギリスの対日戦犯裁判』岩波書店、1998年 225-226頁
- ^ 上田敏明『聞き書きフィリピン占領』P.73 勁草書房 1990
- ^ 『文藝春秋』2006年3月号、492頁。
- ^ 「バタアン死の行進」火野葦平p60-61 p69-79、「バターン死の行進」マイケル・ノーマン エリザベス・M・ノーマン 河出書房新社、2011年 p318
- ^ 「比島従軍記」西川佳雄 p.145 興亜書院(1943)
- ^ 「いっさい夢にござ侯 本間雅晴中将伝」角田房子 p.387 中央公論新社、「バターン「死の行進」を歩く」鷹沢のり子 p.81 筑摩書房
- ^ 「バターン死の行進」マイケル・ノーマン エリザベス・M・ノーマン p.235 河出書房新社、「バターン遠い道のりの先に」レスター・テニ― p.87-88 梨の木舎
- ^ 『文藝春秋』2006年3月号、490頁。
- ^ バターン死の行進の証拠写真とされてきたが、2010年3月19日、AP通信は「バターン死の行進を撮影したものでなかった」として訂正するとともに検証記事を配信した。同通信によると、この写真は行進から数週間後に収容所にて撮られた、米兵の遺体を埋葬のため運ぶ様子を写したものであるという。[1]
- ^ マイケル・ノーマン エリザベス・M・ノーマン「バターン死の行進」河出書房新社、2011年, 521頁
- ^ 林博史『裁かれた戦争犯罪 イギリスの対日戦犯裁判』岩波書店、1998年 225-226頁。
- ^ 「ルソンの苦闘」藤田相吉 p90-94
- ^ 「比島攻略作戦」戦史叢書 p431-432
- ^ a b 軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦(恩欠編)第1巻、第2部 聴取調査記録 「バターン死の行進」282頁
- ^ a b c 今井武夫『日中和平工作 回想と証言 1937-1947』みすず書房、2009年, 163-164頁
- ^ a b 吉本隆明『私の「戦争論」』ぶんか社、1999年[要ページ番号]
- ^ 高山正之『サンデルよ、「正義」を教えよう』[要ページ番号]
- ^ 『文藝春秋』2005年12月号[要ページ番号]
- ^ 『文藝春秋』2006年3月号、489-492頁。
- ^ 溝口郁夫・本郷美則『「死の行進」なのになぜかティータイム!』「歴史通」2011年9月号 P167-P168
- ^ 「バターン死の行進」マイケル・ノーマン エリザベス・M・ノーマン p.264 河出書房新社、「バターン遠い道のりの先に」レスター・テニ― p.100-101 梨の木舎
- ^ 小神野真弘『アジアの人々が見た太平洋戦争』 平成27年4月10日 第一刷発行 彩図社 ISBN 978-4-8013-0066-8ISBN 978-4-8013-0066-8 67,68頁
- ^ 吉本隆明『私の「戦争論」』ぶんか社、1999年, 27頁
- ^ http://www.powresearch.jp/jp/index.html
- ^ “岡田外相、元米兵捕虜に謝罪 「非人道的だった」”. 共同通信社. 47NEWS. (2010年9月13日) 2013年5月22日閲覧。
- ^ “(国家と歴史:下)米に「敵国、日本」の記憶 戦後70年・第3部:朝日新聞デジタル”. 朝日新聞デジタル. 2020年2月15日閲覧。
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