日本の降伏からベトナム戦争まで (1945年〜1975年)
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「アメリカ合衆国の歴史」の記事における「日本の降伏からベトナム戦争まで (1945年〜1975年)」の解説
世界の盟主を自負していたイギリスは、戦争の痛手と植民地の相次ぐ反乱によって急速に衰退し、代わってアメリカとソ連が世界の覇者となった。かねての構想であった国際連合を設立、戦後世界の構築を進めた。しかし、思想が異なるソ連との連合は不可能なことであり、戦後すぐに双方は離反した。アメリカはマーシャル・プランによって西ヨーロッパを経済援助することを基本路線に掲げ、対するソ連は東ヨーロッパの周辺中小国を共産化したことから、欧州大陸は東西に分裂した。いわゆる冷戦である。双方はベルリン問題で対立を深めたが、朝鮮戦争(1950年-1953年)によって遂に熱い戦争となった。アメリカは欧州を防衛する為、集団防衛組織として北大西洋条約機構 (NATO) を設立し、ソ連と東欧の東側陣営を封じ込める戦略を採った。また中東条約機構 (METO) の成立に寄与し、東洋では東南アジア条約機構(SEATO)・ANZAS条約・日米条約・米韓条約・米華条約・米比条約をそれぞれ締結して、ソ連と中華人民共和国を包囲した。さらに、対外情報機関を統合したCIAが設置され、東側との情報戦や諜報戦など工作活動が盛んに行われ、また西側諸国も影響下に置くべく監視した。CIA長官は強大な権限を与えられ、これ以降、数々の国外活動にCIAは関与するようになり、1954年には早くもグアテマラの容共的な政権を転覆するためにPBSUCCESS作戦が実行された。 国内では戦争が終わった安堵感と、若年層の兵士が帰国したことから結婚と出産が急増し、1945年から数年間で幼児人口が増加した(ベビーブーム)。いわゆる「ベビーブーマー」(日本では団塊の世代)と呼ばれる世代の登場である。戦争を潜り抜けた若い家族は、戦前の家族制度に縛られず、両親とは離れた郊外に一戸建てを購入して生活することが多くなり、核家族化が急速に進んだ。この背景には、安くて高性能・しかも若者受けするスタイルの自動車が多数販売されたこと、高速自動車道路網の整備が急速に行われたことが大きく影響している。さらに、家庭用電化製品(家電)の発明と普及が、核家族化の進んだ家庭を助けた。郊外の宅地整備ラッシュ、自動車と家電製品の製造、さらには戦争で再び荒廃した西欧へ製品を輸出したことにより、米国経済は非常に活性化し、1950年代には大好況となった。テレビ、レコードなどの新たな娯楽が普及し、エルビス・プレスリーなどのミュージシャンが登場した。また、ハリウッド映画の黄金期と呼ばれるのもこの時代で、長編の大作映画が次々に製作された。 一方、冷戦の急速な緊張の高まりにより、1940年代末期にジョセフ・マッカーシー上院議員が中心となった反共運動が国民の支持を拡大、FBIも共産主義者の取締りを強化し、公民問わず様々な場所で、共産主義者と見られた人々の排斥が行われた。それは民間企業から官公庁、果ては軍隊へ至り、労組の力が強かったハリウッドでは、数々の作家や俳優が共産主義者として排斥された。この中でチャップリンなどは国外亡命に追いやられて、国内外に衝撃を与えた。これらはマッカーシズムや、魔女狩りに例えて赤狩りと呼ばれ、マッカーシーが失脚する1950年代前半まで大きな動きとなった。この運動によって公職を追放された者は数知れないが、一方で米国内の共産主義運動の芽を摘んだと評価する者もいる。なお、連合国の占領下にあった日本においても、レッドパージとして同様の排斥運動が盛んに行われたが、これは反共のマッカーサー司令官の意思が大きい。 世界では1960年代までに脱植民地化の潮流から植民地からの独立が相次ぎ、西欧の帝国主義的な覇権は終焉を迎え、独立国が資本主義的国家ならばアメリカが、社会主義国家ならばソ連が支援するという二極世界が誕生した。そしてお互いは核兵器、大陸間弾道ミサイル、原子力潜水艦という具合に、この間に相手を何万回も殺せる兵器を持つに至った。大気圏内での核実験を相次いで実施し、核戦争に備える対策が全国で取られた。また両国は軍事的優位に立つために宇宙開発競争に乗り出した。航空宇宙局(NASA)が設立され、人工衛星、有人宇宙船を次々に宇宙空間に送り出したが、ソ連が常に先を行っていた。ジョン・F・ケネディ大統領(民主党)はソ連より先に人類を月へ送り込む計画を打ち出し、NASAの事業はこの目的の為にほぼ一本化されていった。 そんな時、「アメリカの裏庭」と称していたカリブ海のキューバで革命が起こり、これを阻止すべく、亡命キューバ人を中心とした侵攻軍を組織したが、この計画は失敗した。このピッグス湾事件によってカストロ政権はキューバ革命が社会主義革命であることを宣言し、防衛力強化のために共産化したキューバはソ連と親交を深め、アメリカを狙う弾道ミサイルを配備しようとしたため、ジョン・F・ケネディはソ連と核戦争瀬戸際の外交戦を展開した。これがキューバ危機(1962年)である。この危機的状況を打破した米ソ首脳は、緊張の緩和を目指すことで一致し、この後は米ソの直接的な激突は避けられた。 国内では、社会的に保障されず、人種差別に悩む黒人(アフリカ系アメリカ人)が公民権を獲得する為の運動(アフリカ系アメリカ人公民権運動)を行い、急速に盛り上がっていた。特に、1963年は南北戦争の奴隷解放宣言から100周年であり、黒人のデモが相次いで白人と衝突し、銃撃戦に発展する地域もあったが、指導者的存在であるキング牧師はインドに学んだ非暴力闘争を主張し、支持を拡大した。この公民権運動に加え、フランスを中心に拡大した大学生による大学自治運動(学生運動)が飛び火し、学生によるストライキやデモによって、ほとんどの都市が騒然とした状態となった。ケネディは黒人への公民権付与や大学自治の拡大を認め、解決への道筋をつけた。しかし、以前からアメリカ政府が取り組んでいたベトナム戦争への介入政策を転換しようと模索していたが暗殺された。インディアンたちは「レッド・パワー運動」として黒人団体と連携し、権利回復要求を激化。「インディアン若者会議(NIYC)」や「アメリカインディアン運動(AIM)」を結成、「アルカトラズ島占拠事件」や「ウーンデッド・ニー占拠抗議」など、数々の抗議運動でインディアンの存在を全世界に訴えた。 ケネディの後を継いだリンドン・B・ジョンソン(民主党)は、拡大しつつあった「貧困との戦い」と、公民権運動の最終的な解決を目指した「偉大な社会」計画を実行し、一方ではベトナムへ積極的な介入を行い、トンキン湾事件を引き金としてベトナム戦争(1965年-1975年)へ発展した。北ベトナムへ地上軍を進めることの出来ない米軍は圧倒的な物量を背景に北爆や枯葉剤の散布を行ったが、北から次々に侵入する共産軍や、南ベトナムの共産ゲリラに苦しめられ、戦闘は泥沼化した。死傷者が続々と増える中で、欧米や日本では大学生を中心に共産主義運動が流行しており、これは公民権運動と結びついた反戦運動となった。これらの運動は「ベビーブーマー」が主体となっており、既存の文化・社会体制に反感を持ったヒッピーなどに代表される、反社会的な若者文化によっていっそう盛り上がった。長引く戦争に対して国民の支持が得られなくなったジョンソンは1968年の大統領選挙への立候補をしないと表明し、大統領選に出馬しようとしたロバート・ケネディ(ジョンの弟)や、公民権運動の立役者であるキングは相次いで暗殺され、社会は混乱した。 アメリカの1960年代は、公民権法の制定による法律上の人種差別の撤廃、1965年の社会保障法による医療保険制度の普及、ベトナム戦争への介入拡大による死傷者の増大、ベトナム戦争に介入した軍事目的と政治目的の達成断念、反戦運動の拡大、政治や社会運動の指導者の暗殺、アポロ計画による有人月面探査の実現など、多くの成果や弊害が混在した激動の時代だった。 ジョンソンの後を受けたリチャード・ニクソン(共和党)は、泥沼化したベトナムからの撤退を模索し始めた。アメリカ軍はベトナムからの段階的な撤退をはじめ、ついに1973年3月、5万8千人の死者と2千人の行方不明者をもたらしたベトナム戦争からの完全撤退を完了した。ニクソンはその他にも、中華人民共和国の承認と外交関係の開始、ソ連との核軍縮条約の締結、国連における生物兵器禁止条約、絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約の採択と加盟、ドルと金の兌換停止、為替の変動相場制への移行、環境保護庁の設立、自動車の排気ガス規制など、外交と内政において多くの政策転換に取り組んだが、ウォーターゲート事件に対する議会からの責任追及により辞職し、大統領の権威低下と政治に対する信用低下をもたらした。
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