戦いの推移とは? わかりやすく解説

戦いの推移

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 09:24 UTC 版)

神流川の戦い」の記事における「戦いの推移」の解説

6月16日北条氏直倉賀野方面進軍した6月18日初戦滝川勢が、北条氏邦配下であった斎藤光透とその弟・斎藤基盛が守る金窪城(武蔵児玉郡)と川井城を攻め陥落させた。更に金窪原で行われた合戦では、信玄・勝頼の旧臣主体とした上州衆と滝川勢が、北条氏邦鉢形衆5千と戦い石山大学保坂大炊介を討ち取ったが、上州衆も佐伯伊賀守が討ち取られた。しかし最終的に北条方が敗れて追撃を受け二百余人討ち取られた。またこの戦い北条氏直参加し、「鉢形衆3百人加え氏直の身辺の者多数討ち取られた」との記録もある(松平義行所蔵文書)。 6月19日合戦では、先ず北条氏直が2の兵を率い滝川一益手勢3千を率いて戦い北条氏直の兵が敗走した北条氏政はこれを見て1万の兵を弟の北条美濃守氏則(氏規)に与え滝川勢を囲み攻めた。一益は当初の手通り後陣の上州衆を投入しようとした北条高広はじめとする諸将出足鈍く進軍してこなかった。これを見て滝川一益は、関東衆頼りならない考え、「運は天にあり死生命あり敵中打ち入りて、討死せよ」と下知敵中討ち入ったこの為囲んだ北条方は逆に追い立てられ最後に北条氏則が30騎程で打ってかかり滝川勢と渡り合った。この時、北条方の3百余人討死したという。しかし兵を立て直した北条氏直再度滝川勢を攻めると、滝川一益も終に破れ夕刻には敗走した。この時、滝川方の重臣篠岡津田太田栗田など5百騎が踏み止まって討死し、滝川の上州衆では木部貞朝倉賀野秀景の子五郎太六弥太)等が討死した。

※この「戦いの推移」の解説は、「神流川の戦い」の解説の一部です。
「戦いの推移」を含む「神流川の戦い」の記事については、「神流川の戦い」の概要を参照ください。


戦いの推移

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/04 13:49 UTC 版)

鄱陽湖の戦い」の記事における「戦いの推移」の解説

陳友諒船団は、巨艦集めて艦と艦を鎖で繋いで陣としていた。一方朱元璋船団は、小型船中心であり、火力重視していた。さらには朱元璋決戦4日前、ひそかに伏兵を湖口に伏せていた。朱元璋の軍は小型船多く陳友諒巨艦恐れをなして戦いは不利であり、陳友諒配下勇将張定辺が一時朱元璋旗艦肉薄するほどの苦戦となった。しかし陳友諒側は長期包囲戦の後疲労もあり、兪通海率い火砲船団鈍重な陳友諒船舶次々火だるま変えていき、戦い主導権徐々に移りつつあった。戦い3日目にわかに東北風が吹くと、朱元璋決死隊による火船七艘を陳友諒突っ込ませたため、折から強風により密集した巨艦炎上し煙焔天にみなぎり湖水ことごとく赤なり」という地獄絵図化した陳友諒軍は斬首された者2000余、溺死焼死した者は数え切れずという壊滅的敗北喫することとなった。さらに陳友諒の弟で勇略謳われた陳友仁死亡したことで、士気激しく低下した陳友諒逃亡を図るも、朱元璋が湖口の地を伏兵ふさいでいたため、数日睨み合いとなった兵站線断たれたため、陳友諒軍からは寝返り相次いだという。結局陳友諒は湖口の突破試みるが、矢に当たって戦死した

※この「戦いの推移」の解説は、「鄱陽湖の戦い」の解説の一部です。
「戦いの推移」を含む「鄱陽湖の戦い」の記事については、「鄱陽湖の戦い」の概要を参照ください。


戦いの推移

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/04/03 23:32 UTC 版)

ハステンベックの戦い」の記事における「戦いの推移」の解説

フランス軍を再びヴェーザー川向こう追いやるため、カンバーランド公1757年7月26日地勢をよく知らなかったもののハステンベックで戦いに臨む。彼はその軍をアフェルデ(ドイツ語版)からハステンベック(ドイツ語版)を経由し、オーベンスベルク(ドイツ語版)までシェッケン高地ドイツ語版)の西側で6キロメートルわたって展開した指揮下の部隊起伏富んだ土地巧みに配置することで、兵力と砲の著し数的劣勢補おうとしたのである住民退去したハステンベックの戦場中央連合軍前方およそ300メートルにあり、それによって壊滅瀕していた。 1757年7月26日の朝は、双方部隊による砲戦とともに訪れたフランス軍のシェヴェール(英語版中将連合軍気づかれることなく前夜に兵を率いてフォーレムベルク(ドイツ語版)からシェッケン高地接近していた。戦いが始まると、彼はそこから大砲18をもって連合軍猟兵3個中隊が守っていたオーベンスベルクの高地迫り、その陣地を奪う。連合軍後方構えつつ、フランス軍はその上から砲撃加えた程なくブライデンバッハ大佐とダッヘンハウゼン大佐部隊をもって連合軍はオーベンスベルクを奪還し残されていた大砲フランス軍陣地砲撃する昼頃、エストレ公爵元帥戦場からオーベンスベルクの奪還見て取る指揮下の部隊戦闘中断命じた。その少し後、カンバーランド公各部隊退却命じる。これらの命令戦闘頂点達した時、双方迅速な撤退をもって自軍全滅から救うため発せられたものであった。エストレ公は冷静にも、カンバーランド公退却開始したことに気づいた後、撤退中止命じる。そして念のため追撃加えなかった。これによって、監視軍は戦い敗れたフランス軍では2,300名が戦死し連合軍の損害は1,400名に上る

※この「戦いの推移」の解説は、「ハステンベックの戦い」の解説の一部です。
「戦いの推移」を含む「ハステンベックの戦い」の記事については、「ハステンベックの戦い」の概要を参照ください。


戦いの推移

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/06 17:04 UTC 版)

白金狐作戦」の記事における「戦いの推移」の解説

6月29日に、ディートルの山岳軍団は、1940年国境越え、東に進撃始めた左側(海側)を第2山岳兵師団(136連隊137連隊)がペツァモの東から、Titovka集落経てリスタへ。右側(陸側)を第3山岳兵師団(138連隊139連隊)がルオスタリから、Chapr湖→Motovka集落進出してリスタ南側から攻略。さらにその90km南から、イヴァロ大隊が、山岳軍団側面支援するために牽制攻撃を行う、というのが最初の計画であった初日は、山岳兵部隊は、ソ連軍国境陣地突破して進撃続けた計画では、リョーバチ半島ソ連軍封じ込める為に、1個大隊派遣して栓をする予定であったが、ソ連軍圧力が強いので、136連隊はリョーバチ半島に2個大隊派遣する羽目になった6月30日に、第2山岳兵師団136連隊は、国境から約10kmのTitovka集落占領した。しかしOKW作戦地図示されていたTitovkaからリスタへの道は、存在しないことがわかったまた、第3山岳兵師団も、29日にChapr湖からMotovka集落への道は存在しないことを発見した。それらの原因は、OKW作戦地図は、ソ連地図をもとにしていたが、ソ連製地図電話線ラップ人が使う小径を、OKW地図作成者は道路誤認していたことであった激し戦闘の末、7月3日には、137連隊リスタ占領し7月4日には、136連隊の2個大隊は、リョーバチ半島根元防衛線を設けてソ連軍封じ込めたが、ソ連軍砲兵支援された1個連隊相当で、強圧をかけつづけた7月6日に、両師団によるリスタ川を渡って攻撃が行われたが、激しソ連軍抵抗にあった。なんとか、第3山岳兵師団戦線では、2個大隊が川をこえて幅1.5kmの橋頭堡築いた。しかし、同じ日に、ソ連軍は、北方艦隊支援の元、リスタ湾口の東と西に、それぞれ1個大隊上陸させた。この新たな脅威備えるために、第2山岳兵師団は、1個大隊配置し直したリスタ川の主戦線では、ソ連軍の反撃跳ね返したものの、7月8日攻撃中止された。 第5航空艦隊60機の作戦機による支援は、約350km南方北極狐作戦区域含めてのもので、ソ連空軍活動ソ連軍沿岸上陸作戦妨げることはできななかった。 7月13日には、2回目リスタ川の防衛線をうちやぶるべく総攻撃が行われた。しかし、別のソ連軍部隊リスタ湾の北に上陸したという報告があり、この側面脅威除去しない限りリスタ川の東へ進むのは危険で、7月18日攻勢作戦中止された。 ディートルの増援要求こたえて、ファルケンホルスト指揮下の在ノルウェー部隊からの2個連隊が、増援されることになった。さらに、マンネルハイムは、フィンランド14歩兵連隊派遣約束し、この部隊はリョーバチ半島戦線肩代わりすることになった。しかし、これらの部隊到着8月になる見込みだった。7月30日に、ヒトラーOKWは、第6山岳兵師団増援決めたが、この部隊ギリシアにいたので、最善ケースでも作戦行動可能な9月中にペツァモ地区到着する見込みは、薄かった8月2日から、ディートルの山岳兵の4個大隊は、リスタ湾のソ連軍掃討する作戦行い8月5日には、リスタ湾口ソ連軍橋頭堡除去したOKW,ノルウェー駐留軍山岳軍団の間で、今後どうする協議されたが、第6山岳兵師団到着当てにせず、2個連隊増援受けた後に冬が来る前にリスタ川のソ連軍防衛線を突破してムルマンスクか最低でも、コラ湾口のPolyarnyyを攻略することになった。ディートルもブッシェンハーゲンも、この作戦には非常に懐疑的であったが、ファルケンホルストは作戦の実施命じた山岳軍団は、8月攻勢準備にあて、9月総攻撃を行うことになったリスタ戦線での最後の攻勢は、9月8日開始された。ドイツ軍計画は、第2山岳兵師団137連隊SS第9歩兵連隊は、北側橋頭堡よりリスタソ連軍陣地右翼迂回して、173.7丘まで東進しそれから南へ進んでニュー道路に出る。第3山岳兵師団戦線では、第388歩兵連隊正面攻撃をおこなってソ連軍牽制し138連隊139連隊ソ連軍リスタ陣地左翼迂回し、Kuirk湖を経てソ連軍リスタ陣地コラ湾をつなぐロシアン道路へ向かう。ロシアン道路ニュー道路分岐点からニュー道路沿って北上しニュー道路南下してくる第2山岳兵師団手をつなぐ、という計画である。 作戦第一日(9月8日)は、第2山岳兵師団は、比較スムーズに前進し、173.7丘に到達した第3山岳兵師団も、右翼部隊は、比較スムーズに進撃でき、Kuirk湖の狭水路から2キロ地点まで進出した。しかし、第388連隊戦線では、部隊正面攻撃おこない2個大隊は、川を渡って目標の丘の手前まで進んだが、ドイツ軍事前砲撃がやむと、先頭部隊四囲からソ連軍銃火浴び始めた午後に状況深刻になり、連隊長部隊壊滅避けるために川の西岸への退却求め師団長退却許可したが、それまで連隊大損害をだしてしまった。二日目(9月9日)には、第2山岳兵師団戦線で、SS第9歩兵連隊の2個大隊は、ソ連軍陣地存在にきづかず、やりすごしてから、四方から銃火迫撃砲重砲による砲撃をうけ、ソ連軍の反攻にあって部隊潰走し、山岳兵部隊介入してなんとか戦線維持された。第2山岳兵師団は、それでもなんとか5キロ進んだが、そこで、ソ連軍激し反攻にあい釘付けとなった一方第3山岳兵師団先頭部隊はロシア道路ニュー道路分岐点250メートル足らずまで進んだが、そこで、おおよそソ連軍1個連隊保持している陣地ぶつかった。どちらの師団進撃ソ連軍激し反攻にあって止まってしまった。第3山岳兵師団長は、攻撃再開には、補給物資集積に最低一日は必要と報告した作戦第五日(9月12日)に、第2山岳兵師団攻撃再開して、なんとか1.6km南進したが、進撃した分は、その夜ソ連軍の反攻帳消しになった第3山岳兵師団は、9月14日攻撃再開したが、最初からソ連軍の反攻ぶつかってしまい頓挫した。どちらの師団攻勢部隊も、ラバによる荷駄輸送頼っており、なんとか食料運べれていたが、攻勢作戦用の弾薬集積には、不十分だったその後冷雨続き、どちらの部隊攻撃行わず現在地守備体制をとりつつ弾薬補給を待つことになったノルウェー駐留軍司令部は、9月13日に、11日12日ノルウェー沿岸航路貨物船イギリス海軍により撃沈されたので、海軍ノールカップ以東への船舶輸送停止していることを知った。ファルケンホルストは、9月15日に、総統大本営ヒトラー会談した際に、第6山岳兵師団をXXXVI軍団戦線転用する事を提案したが、ヒトラーは、来年春のムルマンスク攻略諦めておらず、提案拒否した9月18日には、ディートルとブッシェンハーゲン少将(軍参謀長)は、この攻勢作戦停止する事に決めた第3山岳兵師団は、17日攻勢再開したが、18日にはPolyarnyy師団2個連隊反撃受けてこれ以上損害避け為に師団長は、リスタ川西岸への退却求め、ディートルは渋々、これを許可した。そして、第3山岳兵師団26日には、リスタ川西岸へ撤収したノルウェー駐留軍は、21日に、正式に作戦中止決定した。しかし、ヒトラーは、翌年春に、第6山岳兵師団参加してムルマンスク攻略諦めておらず、山岳軍団は、リスタ川西岸に越冬用の防衛陣地構築するよう命じられた。

※この「戦いの推移」の解説は、「白金狐作戦」の解説の一部です。
「戦いの推移」を含む「白金狐作戦」の記事については、「白金狐作戦」の概要を参照ください。


戦いの推移

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/26 14:34 UTC 版)

グロースベーレンの戦い」の記事における「戦いの推移」の解説

16時頃、滝のようの中、フランス軍がグロースベーレン付近に現れた。これはジャン・レニエ(英語版師団将軍率い第7軍団属していた。同軍はプロイセン軍にグロースベーレンが占領されているのを目の当たりにして砲撃開始し、およそ1時間プロイセン軍から追い払うプロイセン軍は北に約4キロメートル離れたハイナースドルフ(英語版)に陣を敷いた一方フランス軍はグロースベーレンに露営したビューロウ中将フランス全軍対峙しているとは考えなかったため、北軍ドイツ語版上級指揮官であるスウェーデン王太子ヨハン意に反して攻撃決意する大砲64門の砲列が火を噴いたところ、フランス軍ザクセン軍のより強力な大砲44をもって応射した。同時にプロイセン軍は、グロースベーレンの東方位置するクラインベーレン(ドイツ語版)からも攻撃したレニエ師団将軍遂にプロイセン軍熱意認識した。彼は指揮下の左翼第2集団ザクセン軍6個大隊補強する対すプロイセン軍午後6時頃、合計35,000名による銃剣突撃発令した砲列背後編成された諸大隊梯団単位荒廃したへと前進し、そこでフランス軍退却を強いる。ザクセン軍の第2師団劣勢となり後退した。 同じ頃、昼の間にレニエ軍団の遥か後方残されていたウディノ元帥部隊が、近郊のアーレンスドルフ(ドイツ語版)に到着した。彼は即座に騎兵2,000名を支援のためグロースベーレンへ送り夜襲開始させたが、彼らはプロイセン軍撃退された。 その夜にも、レニエ師団将軍ウディノ元帥ヴィッテンベルクへの退却決定するナポレオンの軍によるベルリンへ攻撃頓挫しプロイセン首都敵軍による征服免れたマクデブルクから進撃して来たジラール(英語版師団1813年8月13日、ハーゲルベルク近郊壊滅的な損害被ったドイツ語版)。

※この「戦いの推移」の解説は、「グロースベーレンの戦い」の解説の一部です。
「戦いの推移」を含む「グロースベーレンの戦い」の記事については、「グロースベーレンの戦い」の概要を参照ください。


戦いの推移

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/26 01:13 UTC 版)

唐沢山城の戦い」の記事における「戦いの推移」の解説

永禄3年2月戦い 永禄2年とする説もある。約十回に及ぶ唐沢山城の戦い唯一、昌綱が謙信手を組んで北条氏戦った合戦北条氏康の子・氏政率いる3万余大軍唐沢山城攻撃する。昌綱は抗戦し謙信救援要請した。これに対し謙信寡兵北条軍破ったとされる。しかしこの合戦創作可能性指摘されている。 永禄4年12月戦い 永禄4年1561年3月謙信は昌綱らを従えて氏康の居城相模小田原城包囲した。氏康は窮地陥るも、陥落するには至らず上杉軍越後引き上げた上杉軍が去ると氏康は反撃開始し北条軍唐沢山城迫った謙信信濃川中島で、甲斐武田信玄死闘繰り広げており、昌綱に援軍を送る余裕はなかった。このため孤立した昌綱は氏康に降伏し、これを反逆みなした謙信により攻撃される至った。しかし唐沢山城堅牢さと冬の到来もあり、謙信は兵を引き上げた永禄5年3月戦い 謙信上野厩橋城年を越した後、永禄5年1562年3月唐沢山城攻め寄せた。しかし堅固な唐沢山城攻め切れず、再び兵を引き上げた。昌綱は昨年続いて二度謙信撃退したことで、その武勇戦国世に知らしめることになった謙信この後越中神保長職反乱起こしたため越中出兵余儀なくされ、関東における北条氏勢力回復を招くことになる。 永禄6年4月戦い 永禄6年1563年2月、氏康は信玄援軍得て上杉方の武蔵における最重要拠点松山城攻撃、これを陥落せしめた謙信越中から急遽越後引き返し埋もれた三国峠越えて関東戻り救援向かっていたが、間に合わなかった。関東留守にしている間、他の関東多くの城も北条方に寝返っていたため、謙信はこれらを次々攻め寄せて降伏開城させていった。この謙信勢い前に、昌綱はあえなく降伏し唐沢山城開城した。謙信この年の冬から翌年春に至る関東出兵降伏開城させた城は、武蔵騎西城忍城下野唐沢山城祇園城下総古河城結城城常陸小田城など多数上った永禄7年2月戦い 永禄7年1564年2月、昌綱は謙信下野去った後に、再び反旗を翻した唐沢山城は、上杉軍上野厩橋城から関東中心古河城古河御所)へ進軍する際の経路押さえ拠点であり、昌綱の度重なる反抗謙信にとって大きな痛手であった。この2月戦いは、10回近い唐沢山城の戦い中でも最大激戦となり、上杉軍激しく攻め立てたが、佐野軍は徹底抗戦した唐沢山城急峻な山頂にある上、水の手も豊富であり、謙信といえども攻め落とすのは容易ではなかった。 しかし昌綱が頼りとする北条氏当時安房里見義堯国府台戦っており、援軍を送ることはなかった。さすがの唐沢山城孤立無援謙信攻められては守り切るのは難しく上杉軍猛攻前に三の丸二の丸奪われ本丸にも迫られた。昌綱は、常陸佐竹義昭下野宇都宮広綱説得従い、ついに降伏謙信は、義昭と広綱に昌綱の助命嘆願され、これを受け入れた。この戦いで斎藤朝信吉江景資色部勝長揚北衆一人)、が軍功挙げ謙信から感状を賜っている。 永禄7年10月戦い 8月謙信信玄川中島5度目戦い忙殺されている間、信玄同盟する氏康は再び北関東軍勢送って唐沢山城脅かした。昌綱は圧力屈して再び謙信から離反し上杉軍の再侵攻招いた10月謙信唐沢山城迫ったため、昌綱は降伏。昌綱から人質取って越後帰国した永禄10年2月戦い 前回戦いで昌綱から人質取ったこと及び、北条氏安房里見攻め主力差し向けていたため、昌綱はしばらく謙信から離反することはなかった。しかし謙信は、西上野・北信濃武田氏関東各地北条氏越中一向一揆と、三方面での戦い強いられており、永禄9年1566年)に下総臼井城攻めおよび上野和田城攻め失敗したことで、多く関東諸大名北条武田方へ離反してしまった。北条氏勢力が再び下野に迫るに及んで、昌綱は再び北条氏離反した永禄10年1567年2月謙信唐沢山城攻め寄せたが、関東諸大名援軍もなく苦戦。冬の寒さもあり、雪解けを待つことにして撤退した永禄10年3月戦い 雪解けとともに唐沢山城殺到した上杉軍前に佐野軍は降伏余儀なくされた。度重なる離反にも関わらず謙信は再び昌綱を助命している。唐沢山城取り戻したものの、この年には上杉方の関東における最重要拠点厩橋城城代北条高広北条方に寝返る事件もあり、謙信関東管領としての威信失墜し兼ねない事態となった。しかしその後共同して謙信戦っていた信玄と氏康の同盟関係亀裂生じ両者駿河今川氏巡って激しく敵対する事態となった。氏康は謙信との和睦要請し謙信がこれを受け入れ越相同盟成立したため、関東における上杉北条争いは一旦収束見た元亀元年1月戦い 元亀元年1570年1月、再び背いた昌綱を従わせるため、謙信唐沢山城迫った。しかし真冬時期攻城さすがに不可であったため、謙信は兵を引いた

※この「戦いの推移」の解説は、「唐沢山城の戦い」の解説の一部です。
「戦いの推移」を含む「唐沢山城の戦い」の記事については、「唐沢山城の戦い」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「戦いの推移」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「戦いの推移」の関連用語

戦いの推移のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



戦いの推移のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの神流川の戦い (改訂履歴)、鄱陽湖の戦い (改訂履歴)、ハステンベックの戦い (改訂履歴)、白金狐作戦 (改訂履歴)、グロースベーレンの戦い (改訂履歴)、唐沢山城の戦い (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS