ぐん‐そう〔‐サウ〕【軍装】
軍服
軍装
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朝鮮人民軍の軍服が制定されたのは1947年のことであると思われる。当時はソ連軍のそれにもっと酷似した軍服であり、軍官は詰襟式で肩章のついたキーチェリ、兵下士官は折襟であったが肩章式の戦士服であった。その後、1958年から全軍事称号で折襟の人民服タイプに襟章が基本スタイルとなり、現在も軍事称号制度に若干の改正はあるものの、1960年代からほぼ同一である。その後、礼服として灰色に近い茶色をした肩章のつく開襟式の軍服、将校・将官の常勤服として戦闘服と同じ色をした開襟式の軍服が採用され、詳細は不明だが1985年頃 には現在の区分が出来上がったものと思われる。 女性はズボンを使用することはモンペを髣髴とさせるという理由からスカートを穿いているが、野戦等の時はズボンが許可される。スカートは70年代まで紺色のプリーツであったが、現在では上衣と同色のタイトスカートとなっている。 海軍の軍服もソ連海軍の軍装が原型であり兵下士官はセーラー服、軍官は折襟式の軍服である。空軍は陸軍とほぼ同じデザインの軍装であるが、兵科色と徽章が陸軍とは異なり、また制帽に徽章が入る。
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軍装
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「ダグラス・マッカーサー」の記事における「軍装」の解説
マッカーサーのトレードマークはコーンパイプと、服装規則違反のフィリピン軍の制帽であった。 マッカーサーは将官ながら、正装の軍服を着用することが少なく、略装を好んだ。第一次世界大戦でレインボー師団の参謀長として従軍した際にはヘルメットを被らずわざと形を崩した軍帽、分厚いタートルネックのセーター、母メアリーが編んだ2mもある長いマフラーを着用し、いつもピカピカに磨いている光沢のあるブーツを履いて、手には乗馬鞭というカジュアルな恰好をしていた。部下のレインボー師団の兵士らもマッカーサーに倣ってラフな服装をしていたため、部隊を視察した派遣軍総司令官のパーシングは「この師団は恥さらしだ、兵士らの規律は不十分でかつ訓練は不適切で、服装は今まで見た中で最低だ」と師団長ではなく、元凶となったマッカーサーを激しく叱責したが、マッカーサーが自分のスタイルを変えることはなかった。 しかし、その風変わりな服装が危険を招いたこともあり、前線で指揮の為に地図を広げていたマッカーサーを見たアメリカ軍の他の部隊の兵士らが、普段見慣れない格好をしているマッカーサーをドイツ軍将校と勘違いし、銃を突き付け捕虜としたことがあった。 元帥となっても、重要な会合や、自分より地位が高い者と同席する場合でも略装で臨むことが多かったために、批判されたこともある。右の天皇との会見写真でも、夏の略装にノーネクタイというラフな格好で臨んだため、「礼を欠いた」「傲然たる態度」であると多くの日本国民に衝撃を与えた。不敬と考えた内務省は、この写真が掲載された新聞を回収しようと試みたが、GHQによって制止されたため、この写真は内務省による言論統制の終焉も証明することになった。ただし、当時のアメリカ大使館には冷房設備がなかったこともあり、夏の暑さを避けるためにマッカーサーは意図せず略装で迎えたともいわれている。 松本健一は、リチャード・ニクソンの回想 において、マッカーサーの略式軍装は彼の奇行が習慣化したもので、1950年に朝鮮戦争問題で会見したトルーマンは、彼のサングラス、シャツのボタンを外す、金モールぎらぎらの帽子という「19かそこらの中尉と同じ格好」に憤慨したと述べている。また、マッカーサーの服装とスタイルには一種の「ダンディズム」ともいえる独特な性向があり、「天皇の前でのスタイルはいつものものでもはるかにましなものであった」とも指摘している。ニクソンが回想する「サングラス、色褪せた夏軍服、カジュアルな帽子、そしてコーンパイプ」という第二次世界大戦中のマッカーサーのスタイルは、まさに厚木飛行場に降り立った時の彼の姿であった。
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軍装
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 21:14 UTC 版)
大元帥の軍服を着るドイツ皇帝ヴィルヘルム2世 将官の軍服を着るヴィルヘルム・グレーナー 将官の軍服を着るエーリヒ・ルーデンドルフ 将官の軍服を着るヴァルター・フォン・リュトヴィッツ 将官の軍服を着るザクセン国王フリードリヒ・アウグスト3世(襟章のラーリシュ・シュティッケライはヴァイマル共和政時代、ナチス体制時代、更には東ドイツの国家人民軍、現在のドイツのドイツ連邦軍にも受け継がれている。) 将官の軍服を着るヴァルター・ラインハルト 将官の軍服を着るハンス・フォン・ゼークト 将官の軍服を着るフリードリヒ・フォン・ゲロック(ヴァイマル共和政時代やナチス体制時代に非常に近いデザインとなっている。) 1915年、パウル・フォン・ヒンデンブルク元帥(後のドイツ国大統領) ヒンデンブルク参謀総長(左)とドイツ皇帝ヴィルヘルム2世(中央)とルーデンドルフ参謀次長(右) 槍騎兵将校用M1907/10野戦服のプロイセン陸軍大尉(マンフレート・フォン・リヒトホーフェン、1917年頃) M1907/10着用の下士官(1914年) M1915略式野戦服着用のバイエルン第16予備歩兵連隊所属の兵士ら、1915年。 第1軍司令部幕僚。中央(アレクサンダー・フォン・クルック)と左の将官はM1907/10将官用野戦服を、それ以外は通常のM1907/10を着用(1914年) M1907/10将官用野戦服の陸軍中将(アルフレート・フォン・ベッセル(ドイツ語版)、1916年ごろ) M1915全兵科共通野戦服着用のバイエルン王国軍近衛歩兵連隊所属の少尉。アントン・グラーフ・フォン・アルコ・アオフ・ファーライ M1915全兵科共通野戦服着用の兵士(1918年ごろ) M1915平時礼装の下士官。 ドイツ帝国の軍帽に用いられた帽章。左上が統一ドイツ帝国、他はバイエルンなど諸邦を示す
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軍装
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軍装
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 22:48 UTC 版)
板垣退助が後年語るところによれば、将卒ともに軍装がまちまちで一定せず、「フロックコート」のような物を着た者や、伊賀袴に陣羽織を着た者があり、軍帽も、洋風の鳥打帽の者や韮山笠の者がいた。そして多くの者が三尺はある長刀を腰に下げていたらしい。迅衝隊は、土佐を出発し、高松城を接収して京都に入ったが、京都出発までにようやく筒袖の法被が揃った程度で、江戸開城して以降にやっと洋風の軍装が整ったらしい。板垣退助が日光へ進軍した時のいでたちは、洋装の軍服に陣羽織を着て、地下足袋に草鞋、頭には赤熊の被り物をして日本刀を下げた姿であったという。
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軍装
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ケントゥリオの軍装は通常の軍団兵のものとは異なり際立っている。甲冑は勲章で飾られ常に磨かれ、剣は左脇に、そして足にはすねあてを装着した。ケントゥリオの兜は独特な羽飾りがついており、敵からも味方からも戦列でその存在は一際目立った。また軍団兵がロリカ・セグメンタタを着用しつつあった帝政においてもケントゥリオはロリカ・ハマタを着用し続け、指揮の時には指揮棒を持った。 甲冑を着用していない時は、身分の印として一般の軍団兵は右前であったのに対し、腰のベルトにつけたプギオ(短剣)を左前に帯剣することになっていた。 ケントゥリオの歴史的再演。フランス、ブルゴーニュ地方にて cf.兵士の軍装、右前に帯剣している。
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軍装
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元隊士・水野進(好之)によれば、服装は以下の様なものであったという。 上衣は呉絽または木綿の筒袖であり、着丈は短く膝までであった。木滝幸三郎によれば、視認性を下げるため多くは黒く染めていたという。その上から力紗羽織や陣羽織を羽織った。力紗羽織の地質は絹呉絽(アルパカ)であり、普通の羽織を筒袖とし、背の縫い目半分ぐらい裂けたものである。兵糧袋は呉絽であり、長円形の袋の前後に縁を付け、紐を通して屈伸を自在として肩掛けとしていた。肩印の地質はは麻布で、長さ三寸、巾一寸五分ぐらい、中央に丹羽氏の違棒紋を書き、一方に鯨または竹を当て、その中央を紐で括り、左の肩先に結びつけた。 下衣は一定せず、洋袴、股引、義経袴、立付など様々であった。 帽子は用いず、白木綿の鉢巻きを締め、髪は髻を打ち糸で結び、背に下げた。 装備は四斤山砲一門、各自ミニエー銃を所持していた。
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