明治三陸地震
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概要
各地の震度は2 - 3程度であり、緩やかな長く続く震動であったが誰も気にかけない程度の地震であった(最大は秋田県仙北郡の震度4[3])[6]。地震動による直接的な被害はほとんどなかったが、大津波が発生し、甚大な被害をもたらした[6]。
低角逆断層(衝上断層)型の海溝型地震と推定される[7][8][9]。三陸沖地震の一つと考えられ、固有地震であるが、震源域は特定されていないため、発生間隔は数十年から百数十年と考えられる[10]。
鳴動現象はこの地震でも報告があり、水澤町や二戸郡福岡町では地震動の到着から数分から10分後に遠雷あるいは発砲のような音を聞いた[11]。
順位 | 名称 | 発生日(JST) | 規模(Mj) |
---|---|---|---|
1 | 東北地方太平洋沖地震 | 2011年3月11日 | 8.4 (Mw9.0) |
2 | オホーツク海深発地震 | 2013年5月24日 | 8.3 |
3 | 千島列島沖地震 | 2007年1月13日 | 8.2 |
北海道東方沖地震 | 1994年10月4日 | ||
十勝沖地震 | 1952年3月4日 | ||
明治三陸地震 | 1896年6月15日 | ||
7 | 小笠原諸島西方沖地震 | 2015年5月30日 | 8.1 |
択捉島沖地震 | 1963年10月13日 | ||
択捉島沖地震 | 1958年11月7日 | ||
昭和三陸地震 | 1933年3月3日 | ||
規模は宇津ほか(2010)・気象庁による |
各地の震度
地震の観測は、中央気象台(現気象庁)および測候所のほか、郡役所などの委託観測所でも行われ、報告されていた。当時の震度階級は「烈」(震度6弱以上に相当)、「強」(4-5強)、「弱」(2-3)、「微」(1)の4段階であり、本地震では弱震および微震の範囲が広く分布していたが、一部「強」と報告された場所もあった[2]。
震度[2] | 観測所 |
---|---|
強 | 上北郡、仙北郡強首村、仙北郡千屋村、亘理郡 |
弱 | 十勝大津村、函館(測)、青森町(測)、三戸郡、北津軽郡、下北郡、胆沢郡、鹿角郡、稗貫郡、秋田市(測)、仙北郡、山本郡能代港町、相馬郡、石城郡、北村山郡、東田川郡、由利郡、宇都宮市(測)、東京市(中央気象台) |
微 - 弱 | 宮古町(測) |
微 | 根室(測)、二戸郡、南岩手郡、西岩井、南九戸郡、西閉伊郡、気仙郡、南秋田郡、平鹿郡沼館村、北秋田郡鷹巣村、福島町(測)、刈田郡、山形市(測)、西置賜郡、東村山郡、飽海郡、東茨城郡、安房郡、甲府市(測)、境町 |
明治三陸大津波
大津波の第一波は、地震発生から約30分後の午後8時7分に記録されている。到達した範囲は北海道から宮城県にわたった。
遡上高[注 3]は、北海道庁幌泉郡(現北海道幌泉郡えりも町)の襟裳岬では海抜4m、青森県三戸郡八戸町近辺(現在の八戸市内丸あたり)で3m、宮城県牡鹿郡女川村(現女川町女川浜女川)で3.1mであった。岩手県の三陸海岸では下閉伊郡田老村(現宮古市田老地区)で14.6m、同郡船越村(現下閉伊郡山田町船越)[注 4]で10.5m、同郡重茂村(現宮古市重茂)[注 5]で18.9m、上閉伊郡釜石町(現釜石市釜石)[注 6]で8.2m、気仙郡吉浜村(旧気仙郡三陸町吉浜、現大船渡市三陸町吉浜)で22.4m、同郡綾里村(旧気仙郡三陸町綾里、現大船渡市三陸町綾里)で21.9mと、軒並み10mを超える到達高度を記録している[12]。
特に綾里湾[注 1][注 7]の奥では入り組んだ谷状の部分を遡上して、日本の本州で観測された津波では当時もっとも高い遡上高である海抜38.2mを記録した[注 8]。
- 小説家・吉村昭は、ルポルタージュ『三陸海岸大津波』のために、この災害に関する証言収集の一環として、1970年(昭和45年)に岩手県田野畑村羅賀を訪問した。津波発生時に10歳であった中村丹蔵(インタビュー当時85歳)から海抜50m近くあった自宅にすごい勢いで津波が浸水してきたという証言を得た[13]と記しているが、海洋学者・三好寿は「件の老人の家は、国土地理院の地図によると海抜25m程度に位置し、50mという値は『吉村と老人の会話の食い違い』から生じた誤認であった」との見解を示している[14][注 9]
- 文春文庫版p25-27、p117によれば、自宅を現地調査のうえで執筆しており、自宅で『40mぐらいはあるでしょうか』という筆者の問いに、村長(早野仙平)が『いや、50mはあるでしょう』と答えている。
- 羅賀には、海岸から360m、標高25-28mのところに津波石がある。明治三陸地震津波で打ち上げられ、高さ2m以上、重さは約20tあるという。遡上高はもっと高かった。東日本大震災での羅賀地区での遡上高は27.8mだった。
三陸海岸の北部は40年前の安政3年(1856年)に発生した安政八戸沖地震においても津波を受けているが、波高も高くなく被害も限定的だった。このことが、津波に対する軽視や油断を生んだ可能性も指摘されている[15]。
なお、この日は旧暦では5月5日にあたっていたが、当時のこの地域では依然として旧暦によって祝い事をする人々も多く、端午の節句の祝いを行っている最中に津波の直撃を受けた例も多かったという[16]。
日本国外への余波
アメリカ合衆国のハワイ州には全振幅2.4- 9.14mの高さの津波が到来し[17]、波止場の破壊や住家複数棟の流失などの被害が出た[18]。また、アメリカ本土ではカリフォルニア州で最大9.5ft(約2.90m)の高さの津波を観測した[18]が、被害は記録されていない。
津波の観測値(まとめ)
日本国内は緯度の高い地域から、国外は震源に近い地域から、順に記載する。数値は最大値。
国 | 地域 | 波高 (海抜) |
遡上高 (海抜) |
---|---|---|---|
日本 | 北海道庁幌泉郡(現北海道幌泉郡えりも町)の襟裳岬 | m | 4|
青森県三戸郡八戸町近辺(現八戸市内丸あたり) | 3m | ||
岩手県下閉伊郡田老村(現宮古市田老) | 14.6m | ||
岩手県下閉伊郡重茂村(現宮古市重茂) | 18.9m | ||
岩手県下閉伊郡船越村(現下閉伊郡山田町船越) | 10.5m | ||
岩手県上閉伊郡釜石町(現釜石市釜石) | 8.2m | ||
岩手県気仙郡吉浜村(現大船渡市三陸町吉浜) | 22.4m | ||
岩手県気仙郡綾里村(現大船渡市三陸町綾里) | 21.9m | ||
岩手県・綾里湾の奥(綾里村近隣) | 38.2m | ||
宮城県牡鹿郡女川村(現牡鹿郡女川町女川浜女川) | 3.1m | ||
アメリカ合衆国 | ハワイ州 | 30ft(約9.14m) | |
カリフォルニア州 | 9.5ft(約2.90m) |
注釈
- ^ a b 綾里崎の項も参照。
- ^ 震度分布に基づいて長らくマグニチュード7.6とされてきたが、津波の大きさを考慮して数値が改められた(『理科年表 平成18年』)。
- ^ a b 津波の遡上高とは、陸を駆け上って到達した高さ。
- ^ 船越湾の項も参照。
- ^ 重茂半島の項も参照。
- ^ 釜石湾の項も参照。
- ^ “綾里漁港”. 2011年5月26日閲覧。
- ^ この記録は、2011年3月11日に起きた東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)による津波で最大溯上高40.1mを記録したことにより、更新されている。出典:“現地調査結果”. 東北地方太平洋沖地震津波合同調査グループ (2012年1月14日). 2012年2月9日閲覧。
- ^ 田野畑村#津波石も参照。
- ^ “技術三室” (PDF). (公式ウェブサイト). 東京大学地震研究所. 2011年5月22日閲覧。:錦絵瓦版『明治丙申三陸大海嘯之實況』等の画像資料等あり。
- ^ “特集:津波を知る”. 広報誌『なるふる』(公式ウェブサイト). 日本地震学会 (1999年3月). 2011年5月26日閲覧。:錦絵瓦版『明治丙申三陸大海嘯之實況』の画像資料あり。
出典
- ^ 沼田清, 2020,[資料]明治三陸津波の写真記録の全体像 (PDF) , 歴史地震, 第35号, 139-155.
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- ^ a b 大森(1901)
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- ^ 北原糸子他 座談会(後編)「災害の歴史から何を学び、どう向き合うか 災害列島に生きた人々」/ 保立道久・成田龍一監修、北島糸子他著『津波、噴火、、、日本列島地震の2000年史』 朝日新聞出版 2013年 110-111ページ
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- ^ 明治三陸津波 (PDF) 中央防災会議 「第2章 明治三陸津波」
- ^ 谷岡 『月刊地球』 Vol.25
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- ^ 明治廿九年六月十五日海嘯槪況報告 岩手縣宮古測候所 驗震時報第7巻第二號(昭和八年八月) pp.363-370 (PDF)
- ^ “宮古の津波遡上38.9メートル 明治三陸超える”. 岩手日報(ウェブサイト) (岩手日報社). (2011年4月16日) 2011年4月19日閲覧。
- ^ 吉村(2004)、25-27頁。
- ^ 三好(1984)
- ^ 山下文男 (2011). 『哀史三陸大津波』. 河出書房新社. p. 102
- ^ 山下文男 (2011). 『哀史三陸大津波』. 河出書房新社. p. 34・83・92
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- ^ 阿部勝征、日本付近に発生した津波の規模(1498年-2006年)
- ^ a b 阿部勝征(1988)、「津波マグニチュードによる日本付近の地震津波の定量化」『東京大学地震研究所彙報』 1988年 63巻 3号 p.289-303.hdl:2261/13019, 東京大学地震研究所
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- ^ 安部 『月刊地球』 Vol.25
- ^ a b c “2011年 東北地方太平洋沖地震 過去に起きた大きな地震の余震と誘発地震”. (公式ウェブサイト). 東京大学地震研究所 広報アウトリーチ室 (2011年4月). 2012年3月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年5月26日閲覧。
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