日本とインドネシアの関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/14 03:05 UTC 版)
インドネシア |
日本 |
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日本にとって、インドネシアは液化天然ガスなどの天然資源の死活的に重要な供給国である。両国はともにG20とAPECの加盟国である。
今日、インドネシアで働く日本人は11000人にのぼる一方、日本では約24000人のインドネシア人が働いたり訓練を受けたりしている。
インドネシアは東京に大使館を、大阪に領事館を設置している。日本はジャカルタに大使館を、メダン、デンパサール、スラバヤに総領事館を、マカッサルに領事事務所を設けている。
両国の比較
インドネシア | 日本 | |
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人口 | 2億7636万2000人 (2021)[1] | 1億2555万9000人 (2021)[2] |
面積 | 191万6907km2 (740,122 sq mi )[3] | 37万7973.89km2 (145,936.5 sq mi)[4] |
人口密度 | 144.2人/km2 (373.4人/sq mi) | 332.2人/km2 (860.4人/sq mi) |
可住地面積当たり | 281.8人/km2 (729.6人/sq mi) | 1217人/km2 (3152人/sq mi) |
首都 | ジャカルタ→ヌサンタラ (都市) (2024予定) | 東京 (事実上) |
最大都市 | ジャカルタ - 1056万人[3] | 東京都区部 – 973万3000人[5] |
政府 | 単一国家、大統領制、立憲共和制 | 単一国家、議会内閣制、立憲君主制[注釈 1] |
公用語 | インドネシア語 | 日本語 (事実上) |
主な宗教 | イスラム教86.1%、キリスト教8.7%、ヒンドゥー教1.8%、仏教1%、その他2.4% | 神道83.9%、仏教71.4%、キリスト教2%、その他0.6% (日本では神道と仏教を両方信仰することが広く行われているため、合計した数字は100%を超える) [6] |
民族 | ジャワ人40%、スンダ族16%等。詳しくは英語版記事参照。 | 日本人98.5%、中国人0.5%、韓国人0.4%、その他0.6% |
名目GDP (2020) | 1兆0596億4000万米ドル (1人当たり3,922米ドル)[7] | 5兆0486億9000万米ドル (1人当たり40,146米ドル)[8] |
実質GDP (2020) | 3兆3024億1000万米ドル (1人当たり12,222米ドル)[9] | 5兆3130億2000万米ドル (1人当たり42,248米ドル)[10] |
軍事費 | 93億9600万米ドル (2020) [11] | 491億4900万米ドル (2020) [12] |
最大の都市圏 | ジャカルタ (ジャワ島) 3536万人 - 3541km2 (4751人/km2)[13] | 東京=横浜 3911万人 - 8231km2 (9988人/km2)[14] |
第2の都市圏 | バンドゥン (ジャワ島) 693.2万人 - 487km2 (14236人/km2)[13] | 大阪=神戸=京都 1549万人 - 3020km2 (5129人/km2)[14] |
第3の都市圏 | スラバヤ (ジャワ島) 649.4万人 - 912km2 (7123人/km2)[13] | 名古屋 952.2万人 - 3704km2 (2571人/km2)[14] |
第4の都市圏 | メダン (スマトラ島) 343.6万人 - 479km2 (7171人/km2)[13] | 福岡 228.0万人 - 505km2 (4514人/km2)[14] |
第5の都市圏 | スマラン (ジャワ島) 202.2万人 - 259km2 (7807人/km2)[13] | 札幌 216.2万人 - 552km2 (3919人/km2)[14] |
歴史
植民地時代の関係
17世紀初頭、オランダ領東インド(現在のインドネシア)に初めての日本人の移住者が住み着いていたことが記録されている。
より大きな波は17世紀に到来し、朱印船は東南アジアで交易を開始した。また1764年から、日本人漂流民の孫太郎がボルネオ島南部のバンジャルマシンで中国系インドネシア人の下男として暮らし、1771年にオランダ船で日本に帰国している[15]。
明治維新ののち、1898年のオランダ領東インドの植民地の記録には、614人の日本人が住んでいたという記録がある(男166人、女448人)[16]。1909年、日本人の人口が増えたため、日本はバタビアに領事館を設置したが、最初の数年間の人口統計はむしろいい加減なものだった[17]。1920年代、沖縄の漁師が北スラウェシに定住し始めた。マナドには日本人のための小学校があり、1939年には18人の生徒がいた[18]。1938年、合計で6349人の日本人がインドネシアに住んでいた[19]。
第二次世界大戦
1942年、大日本帝国は東南アジアに侵攻した。日本はオランダ軍を破り、現地のジャワ人の預言者(en:List of fulfilled prophecies#Liberation of Indonesia)によれば、解放のためにやってきた英雄としてインドネシア人に歓迎された。
日本はまた、末期のオランダ領東インドのボルネオ島、ジャワ島、スマトラ島、オランダ領ニューギニア(高価値の銅山がある現在のインドネシアのパプア州)の重要な油田地帯を占領した。
日本人はインドネシア人の民族意識の覚醒を促した。これはインドネシアの独立支援という利他的な動機というよりは、日本の政治的動機によって行われていたが、この支援は新しいインドネシア人の団体とスカルノのような政治指導者を生み出すきっかけになった。インドネシア人の国家主義的な指導者の登用を通じて、日本はインドネシアへの支援とインドネシア人の日本の戦争への徴用を続けようとした。
インドネシア人が受けた日本による占領の経験は、地域と社会的地位によって大きな幅があった。何千人もの人々がインドネシアから強制的に「ロームシャ」(労務者)として日本の軍事作戦に徴用された。
西側の連合国軍との戦争でインドネシアの人々から軍事的支援を受けるため、日本は自主的に集まって結成された郷土防衛義勇軍(PETA)を含め、インドネシアの若者に軍事的訓練と武器を与え、インドネシア人による国家主義運動の促進を始めた。
日本によるインドネシアの若者の軍事訓練は、もともとは敗戦による大日本帝国の統治機構の崩壊時に現地の支持を得続けることを企図したものだった。
しかしながら、後にこの軍事訓練は、1945年から1949年の独立戦争を経て、インドネシア共和国建国への大きな財産となった。
1945年、日本は敗戦の危機に瀕し、オランダはインドネシアに植民地政権を再び建設しようとし、日本陸軍にインドネシアの「法と秩序を保つ」ために協力を求めた[20]。日本人は自らの政権を樹立するための準備をしていた国家主義的なインドネシア人を応援することを望んだ。
1944年9月7日、日本は戦況が悪化するなか、小磯国昭首相は、首相がこの約束を果たすことはできなかったが、インドネシアの独立を約束した[21]。
1945年4月29日、日本の占領軍は、インドネシアが独立を果たすために日本人が組織した委員会であるインドネシア独立準備調査会を組織した。
この組織は1945年4月29日、第16軍の司令官である原田熊吉中将によって創設されたものである。
この組織を通じてインドネシアの独立会議が準備され、日本の公式な支援を得ることなく、1945年8月17日、スカルノ、ハッタとインドネシアの若者によってインドネシアは独立を宣言した。
第二次世界大戦中の日本に対する現代インドネシア人の評価
2008年に外務省がASEAN主要6か国(インドネシア、マレーシア、フィリピン、シンガポール、タイ、ベトナム)に対日世論調査(一カ国約300名、TNSシンガポール社に調査依頼)をしたところ、「第二次世界大戦中の日本について、現在あなたはどうお感じですか」という設問において、以下のような結果だった[22]。
項目 | シンガポール | マレーシア | タイ | インドネシア | フィリピン | ベトナム | 合計 |
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悪い面で忘れることは出来ない | |||||||
悪い面はあったが、今となっては気にしない | |||||||
全く問題にしたことはない | |||||||
分からない |
インドネシア共和国独立期の関係
約3000人の大日本帝国陸軍軍人はインドネシアに残ることを選び、現地の人々とともにオランダの植民地主義者たちとインドネシア独立戦争を戦った。
そのうち約3分の1は戦死し、その多くはカリバタ英雄墓地に埋葬され、生き残った者は戦争が終わった後もインドネシアに残ることを選び、彼らの一部はインドネシア独立の英雄として顕彰されている[23][24]。
1950年代
日本とインドネシアは1958年に平和条約を締結し、国交を樹立した[25]。
1960年代
1964年、アジアで初めて開催となる東京オリンピックへのインドネシア選手団の参加をめぐり、国際オリンピック委員会 (IOC) を巻き込んだ大きな問題となった。
1962年、ジャカルタで開催されたアジア競技大会と翌年の新興国競技大会をめぐりIOCと対立、この結果、同国選手団は来日したものの開催前日の10月9日にボイコットを表明、帰国した[26]。
1970年代
1970年代、日本の製造業者、そのなかでも特に電機部門、はインドネシアに工場の建設を開始し、このことは新しい日本人移民、主に日本企業の管理者や技術者、の波を奨励した[27]。
日本の自動車業界もまた、インドネシア市場への展開を開始し、現在、日本の自動車業界はインドネシア市場で最大の割合を占めている。同時に、日本の消費者製品もインドネシア市場への展開を始めた。
しかしながら、日本経済のインドネシア支配は反対運動の盛り上がりにつながり、1974年1月14日から17日までの日程で田中角栄首相がジャカルタを訪問していた最中の1974年1月15日、大規模な反日暴動(マラリ事件)が発生した[28]。
この事件によって、日本は、インドネシアとの関係を経済的観点からのみ見る外交方針を改める事となった。
日本は、相互理解の欠如が暴動が起きた原因と理解し、以後、外務省などは日本文化とインドネシア文化を相互に学ぶ文化交流に積極的となっていった。この流れは、福田ドクトリンとして結実し、後のインドネシアの良好な対日感情にも繋がることとなった[28][29]。
1980年代以降
1980年代から21世紀にかけて、日本企業のインドネシアに対する投資は着実に増加した。
注釈
出典
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- ^ 「[2]」総務省統計局 人口推計(令和3年(2021年)9月確定値,令和4年(2022年)2月概算値) (2022年2月21日公表)
- ^ a b 「[3]」jetro.co.jp 概況・基本統計 インドネシア
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- ^ 「[5]」knoema.com 日本 - 購買力平価(PPP)に基づく国内総生産
- ^ 「[6]」knoema.com インドネシア - 国内総生産
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