島津斉彬
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官歴
- 文化9年8月15日(1812年9月20日)、薩摩藩世嗣となる。
- 文政4年3月4日(1821年4月6日)、元服。又三郎忠方と名乗る。
- 文政7年11月21日(1825年1月9日)、将軍・徳川家斉の偏諱を受け、斉彬と改める。従四位下侍従兼兵庫頭に叙任。
- 天保3年5月18日(1832年6月16日)、豊後守に遷任。侍従如元。
- 天保5年12月16日(1835年1月14日)、左近衛権少将に転任。豊後守如元。
- 天保14年2月9日(1843年3月9日)、修理大夫に転任。左近衛権少将如元。
- 嘉永4年
- 嘉永5年12月16日(1853年1月25日)、従四位上に昇叙し、左近衛権中将に転任。薩摩守如元。
- 文久2年11月12日(1863年1月1日)、追贈従三位権中納言。
- 文久3年5月12日(1863年6月27日)、照国大明神の神号を贈られる。
- 明治2年11月22日(1869年12月24日)、追贈従一位。
- 1901年(明治34年)5月16日、追贈正一位。
系譜
- 父:島津斉興(1791-1859)
- 母:弥姫(1792-1824)、周子、賢章院 - 池田治道の娘
- 同母兄弟[11]
- 妻子[11]
- 養子
多数の子女のうち成人したのは須磨との間の娘3人のみで、全員が弟・久光の息子の妻となった。さらに、養嗣子の忠義に嫁いだ娘2人はいずれも難産で死去し、無事に成人まで子が育ち自身も命を長らえたのは典姫ただ一人であった。斉彬の血筋は六男・哲丸が3歳で夭折したことにより男系子孫は途絶え、典姫を通じて女系は島津家の諸分家などで続いた。斉彬の母、弥姫(周子)は鳥取藩主・池田治道と仙台藩主・伊達重村の娘、生姫との子であり、織田信長、徳川家康、伊達政宗、毛利元就の血を引いている。
脚注
注釈
出典
島津斉彬と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
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