中国の軍事史 中国の軍事史の概要

中国の軍事史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/06 16:52 UTC 版)

ここでは、国家間の戦争や出来事、武器の発展など、軍事史について総合的に述べる。個々の戦闘・合戦については中国の戦闘一覧を参照されたし。ここで取り上げる戦争は中国の歴代王朝の戦争についてのみ取り上げる事に留意。また図表中での攻撃側・防衛側には、発起人や標的となった人物・国を記すため、全貌を示すものでない事に留意。

概説

中国の近接戦闘具の発展

中国では古来より戦闘が盛んであり、武具の発展も著しいものであった。中国では、黄河文明シルクロードを経由した鉄器の流入により長江四川両文明の優位に立ち、殷代の最盛期にはその版図は長江中流域に及んだ。周代には南方に楚国を始めとする諸国が立ち、秦の統一戦争によって、この時代の「中華」が統一された。

漢代には武帝西域進出によりシルクロードと密接になった中国では、交易が盛んとなりつつあった。しかしその後、漢は崩壊し、三国時代となった。この時代には名軍師として名高い諸葛亮で奮戦した。その後、屯田制を作ったから帝位を簒奪した西晋が中華を統一するも、八王の乱永嘉の乱により短命に終わり、華北には異民族が割拠した(魏晋南北朝時代)。

時代には様々な制度が整備され、唐はイスラム教徒のアッバース朝と西域を巡ってタラス河畔で激突するも、敗北した。この時に製紙法が西伝していることから、唐代には紙を使った厳格な組織的行動が行われていたことが分かる。しかし安史の乱が起き、中国は再び分裂期に入った。

宋代には武断統治が文治政治に変わり、地方で殆ど独立していた藩鎮勢力を弱体化させた。藩鎮とはそもそも辺境を守る節度使であり、帝権強化のために弱化して禁軍に編入したことが両宋滅亡の原因の一つともされる。その後の元は国内でのジャムチによる移動が可能となり、兵員や物資の効率的輸送が行えるようになった。また南宋で発明された火薬が実用化された。

明代には洪武帝などが北伐を行なったものの、異民族に対して基本的に守勢にあったため、万里の長城が築かれた。現存のもので観光地化されているのは明代のものである。明は満洲地方の女真人に対して兵器や人員の両面において圧倒的優位に立っていたが、李自成反乱により北京が陥落し、南明政権が立つも、山海関を開放した呉三桂と清の連合軍により滅んだ。

では八旗制が採られた。八旗には満洲八旗・蒙古八旗漢軍八旗があり、黎明期の清を支えたが、三藩の乱頃には貴族化しており、代わって緑営が主力となった。乾隆年間に清は最大版図を実現し、回の征服戦争てに勝利したということで、「十全老人」と自称する程であった。しかし乾隆帝の譲位以後に政権を握ったヘシェン(和珅)の苛烈な取り立てに反発した民衆らの白蓮教徒の乱頃には弱体化しており、郷勇がこれに代わった。しかしこの後も混乱は続き、華北の捻軍と江南の太平天国が清を脅かした。両者ともに鎮圧されるも、軍閥化した将軍の一人の袁世凱によって辛亥革命が成功し、清朝は滅亡した。

その後を引き継いだ中国国民党は、抗日戦争を2度の国共合作により乗り切るも、中国共産党に大陸の金門地区を除く全てを奪われた。その後、中華人民共和国は、第三世界の一つとして急激に発展し、インド洋・東南アジア地域への展開を進めている。

先秦

指南車の模型
青銅製のの穂先

先秦時代については、実在性が示せていないものが多く、諸説ある(疑古・信古を参照)。

古国時代においては、黄帝指南車という道具を用いて蚩尤の撹乱を無効化したとされる(涿鹿の戦い)。この時代には既に青銅器が使用されていたとみられるが、鉄器は出土していない。伝説上では、弓矢を発明したのは黄帝であり、名手であった羿にまつわる多くの話が知られている。

三代においては、二里頭文化圏以降、多くの青銅器が発見されている。では金属加工技術を独占する傾向があったとされ、この傾向は歴代王朝の弩の製造技術にも見受けられる。

またこの時代は、天体運動や八卦などに頼った戦が主流であったとされる。代表例が殷代によく用いられた亀卜による占いである。しかしその一方で兵器開発も進み、戟という武器が発明され、唐代まで用いられた[1]

先秦時代の戦争
戦争名 戦争年間 攻撃側(君主名) 防衛側(君主名) 原因 勝者 結果・講和条件
夏商革命 BC1449頃[注釈 1] 子履 夏后履癸 孔甲以来の失徳、夏后履癸(桀)の暴政 攻撃側(商・湯王) 夏から殷への易姓革命
殷周革命 BC1046[2] 姫発 子受 子受(紂王)の暴政 攻撃側(周・姫発) 殷から周への易姓革命
三監の乱 BC1042〜BC1039[2][3] 子禄父 姫旦 姫旦の摂政就任[注釈 2] 防衛側(周・姫旦) 子禄父の処刑、殷領の衛宋分割
対楚戦争 BC965〜BC957[2] 姫瑕 熊繹 姫瑕の南征政策 防衛側(楚・熊繹) 姫瑕の戦死
申侯の乱 BC771 申侯 姫宮涅 申后の廃后、宜臼の廃太子 攻撃側(申・申侯) 姫宮涅殺害、鎬京陥落、周の東遷(西周の滅亡

注釈

  1. ^ 夏王朝の建国をBC1920年とし、史書の471年続いたという記述より逆算。
  2. ^ 名目上はこれによる王位簒奪防止であるが、これを言いがかりにした旧殷勢力による蜂起である。
  3. ^ 前者は主な晋領の分割が行われ、諸侯に列せられるまで。後者は晋の静公の領土分割。
  4. ^ 実際は足並みが揃わず、三晋)しか参戦していない。
  5. ^ これは最後に残った成家公孫述を滅ぼした年。
  6. ^ 「フン族は紀元前3世紀頃に中国の北方に勢力があった匈奴(北匈奴)の子孫であり、テュルク系民族がユーラシア大陸に広がった最初の端緒である」とする説がある。(フン族#「フン族」=「匈奴」説を参照)
  7. ^ 冉魏、代、西燕、翟魏、譙蜀は十六国としてカウントされない[16]
  8. ^ 禿髪傉檀の子である禿髪破羌が北魏に降った時に与えられた「源氏」は、「源を同じにする」という事から、日本の皇別氏族・源氏の氏族名の由来となった。また、禿髪烏孤の子にあたる禿髪樊尼が滅亡後にチベットへ逃れ、吐蕃を建国したという伝説もある。
  9. ^ 滅亡後、沮渠牧犍の弟にあたる沮渠無諱沮渠安周高昌国(高昌北涼)を建てた。
  10. ^ これについては開始の定義が存在しないため、北魏末代・元脩の西遷による東魏の成立を開始とした。
  11. ^ その後、使者段確を殺害し、李世民東都平定に伴い処刑
  12. ^ 北宋を滅ぼしたが南宋は滅ぼしておらず、また金の滅亡時にはモンゴル帝国南宋が共に出兵しているため、勝敗については記述しないものとした。
  13. ^ 始皇帝武帝は西方に出兵しては植民地化(置県)し、そこを守らせた。
  14. ^ 『乾隆大清会典則例』によると、乾隆帝期の緑営は66鎮、1169営だったとされる。ここでの鎮は最大の軍事単位で、営は最小単位。

出典

  1. ^ 『図説 中国文明史2 殷周 文明の原点』 稲畑耕一郎:監修 株式会社創元社 2007年
  2. ^ a b c 夏商周断代工程的主要成就
  3. ^ Shaughnessy, Edward L. (1999). “Western Zhou History”. The Cambridge History of ancient China - From the Origins of Civilization to 221 B.C. Cambridge: Cambridge University Press. pp. 331. ISBN 9780521470308
  4. ^ 李衛公問対
  5. ^ a b ロバート・テンプル、牛山輝代訳 『図説 中国の科学と文明』 河出書房新社、2008年。ISBN 978-4-309-22486-2 pp.370-380
  6. ^ First use of a crossbow(ギネス記録 2019.5.9参照)
  7. ^ 宋襄の仁-コトバンク
  8. ^ 史記 巻五 秦本紀第五》:七年,楽池相秦。韓・趙・魏・燕・斉帥匈奴共攻秦。秦使庶長疾与戦修魚,虜其将申差,敗趙公子渇、韓太子奐,斬首八万二千。
  9. ^ 史記 巻五 秦本紀》:十一年,斉与韓・魏・趙・宋・中山五国共攻秦,至塩氏而還。秦与韓・魏河北及封陵以和。
  10. ^ 資治通鑑 巻四 周紀四》:斉・韓・魏・趙・宋同撃秦,至塩氏而還。秦与韓武遂、与魏封陵以和。
  11. ^ 姓は『史記 燕世家』では周と同じく「姫姓」だが、殷墟の『卜辞』および『史記索隠』が引く『竹書紀年』によれば、姞姓。
  12. ^ 『史記・秦本紀』による記述。
  13. ^ 後漢書「献帝紀」
  14. ^ 川本芳昭 『中華の崩壊と拡大 魏晋南北朝』 講談社〈中国の歴史05〉、2005年2月。P50
  15. ^ 十六国春秋』、中国語版ウィキソース
  16. ^ 岡崎文夫『魏晋南北朝通史内編』安田二郎[解説]、平凡社東洋文庫〉、1989年7月(原著1932年9月)。ISBN 978-4-582-80506-2 
  17. ^ 『宋史』巻46 度宗本紀 咸淳9年2月庚戌条「呂文煥以襄陽府帰大元」
  18. ^ 『続資治通鑑』宋紀一百八十
  19. ^ 『唐宋変革論』内藤湖南
  20. ^ 『元史』亦思馬因伝、阿里海牙伝
  21. ^ 東方見聞録マルコ・ポーロ
  22. ^ 元史』巻6 世祖本紀
  23. ^ 加藤和『ティームール朝成立史の研究』P211-212
  24. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』P71
  25. ^ a b 三田村泰助『世界の歴史14 明と清』河出書房新社、1969年(河出文庫、1990年)
  26. ^ 『火龍神器陣法』
  27. ^ 『火攻罕要』
  28. ^ 武備志
  29. ^ "十全の武功". ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. コトバンクより2020年7月11日閲覧
  30. ^ 2023 Military Strength Ranking” (英語). www.globalfirepower.com. 2023年11月6日閲覧。


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