中国の軍事史 唐代

中国の軍事史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/06 16:52 UTC 版)

唐代

唐の版図の変遷
長安城

隋末唐初の混乱を平定したは、初唐・盛唐期に善政を敷いた。またタラス河畔の戦いではイスラム勢力であるアッバース朝にカスピ海周辺での覇権を奪われるも、安史の乱までは大帝国であった。しかし安史の乱の平定にはウイグルの力を借りねばならず、またこの間に吐蕃に長安を奪われるなどして、唐の権威を失墜させるのに十分なものだった。その後、塩鉄専売制に反発する民衆反乱が相次ぎ、朱全忠による簒奪の後、五代十国時代が始まった。

タラス河畔の戦いをきっかけとして製紙法が西伝しており、このことから戦地では現地生産しなくてはならない程の大量の紙を使用した、緻密な作戦行動が展開されていたとされている。またこの頃に衝車(破城鎚・攻城塔の一種)が用いられ始めたとされる。

唐代の戦争
戦争名 戦争年間 攻撃側(君主名) 防衛側(君主名) 原因 勝者 結果・講和条件
安史の乱 755〜763 安禄山 李隆基 不明、諸説あり 防衛側(唐) 燕方面のトルコ系藩鎮の事実上独立
黄巣の乱 874〜884 斉(黄巣 李儇 塩鉄専売制に対する反発 防衛側(唐・李儇) 長安陥落、唐の地方政権化
唐の滅亡 907 後梁朱全忠 李柷 攻撃側(後梁・朱全忠) 政治・経済の中心地の東遷

五代十国時代

この時代には、唐からの禅譲の流れで繋がる五代藩鎮系の十国が互いに争った。

宋代

宋朝の軍事カタログ『武経総要』の中の双弓床子弩、さらに発展させた三弓床弩も開発された。

兵器面においては、火薬が発明された。火薬は中国三大発明の1つにも数えられるが、当時は威嚇などに用いただけで、戦闘には用いる形態ではなかった。戦闘に用いるものは南宋時代の実火槍という木製火砲が最初とみられる。しかし南宋時代には火薬は他国に伝わっており、襄陽・樊城の戦いでは、回回砲という大砲が南宋の防衛隊に向けて用いられた[17][18]

宋代の主な特徴は、帝権の強化である。唐代では府兵制、後に募兵制が採られたが、節度使藩鎮化により、唐末には帝国は地方政権と化した。軍人がやがて権力を握るようになり、将軍たちが皇帝を左右するといった状況であった。しかし趙匡胤は、節度使の名誉職化に成功し、兵力は皇帝直属の近衛兵である禁軍に集約されるようになった。その結果として、辺境の防御力が低下し、西夏の独立やの侵入を許した[19]

宋代の戦争
戦争名 戦争年間 攻撃側(君主名) 防衛側(君主名) 原因 勝者 結果・講和条件
宋金戦争 1127〜1234 完顔阿骨打 趙佶 方臘の乱を遠因とする海上の盟の崩壊 [注釈 12] 北宋の滅亡、後に金の滅亡
モンゴル・南宋戦争 1234〜1279 趙昀 モンゴル帝国モンケ 洛陽開封奪還 防衛側(モンゴル帝国・モンケ) 南宋の滅亡

元代

元寇で用いられたてつはう

モンゴル帝国時代には既に回回砲などの大砲が用いられたが[20]、1332年には大元の統治下で、青銅製の砲身長35.3 cm・口径10.5cmの火砲が製造され、元末の農民反乱に対しても多数使用されたとされる[21]

前身となったモンゴル帝国は侵攻の際、情報戦の一環として、降伏した国家には寛容に接し、抗った国には徹底的残虐を加えた。また商業民と化していたウイグル遺民の協力を得て、西遼滅亡を理由としてナイマンを滅ぼし、版図を拡大していった。南宋に対しても同様の作戦を採り、降将に好待遇で接したため、襄陽・樊城の戦いから臨安陥落までの抵抗はあまり無く、殆ど無傷の江南を手に入れることができた[22]

元末明初には宋を復興したものとする東系紅巾と徐寿輝の建てた西系紅巾(天完)が現れたが、やがて宋の韓林児を保護した元白蓮教僧の朱元璋が実権を握り、明を建てて漢民族王朝の復興を内外に示した。それに対しモンゴル帝国崩壊後の西半をほぼ統一したティムール靖難の役の混乱に乗じて永楽帝期の明に侵攻しようとしたが、途中で病死し、帝国は瓦解した[23][24]


注釈

  1. ^ 夏王朝の建国をBC1920年とし、史書の471年続いたという記述より逆算。
  2. ^ 名目上はこれによる王位簒奪防止であるが、これを言いがかりにした旧殷勢力による蜂起である。
  3. ^ 前者は主な晋領の分割が行われ、諸侯に列せられるまで。後者は晋の静公の領土分割。
  4. ^ 実際は足並みが揃わず、三晋)しか参戦していない。
  5. ^ これは最後に残った成家公孫述を滅ぼした年。
  6. ^ 「フン族は紀元前3世紀頃に中国の北方に勢力があった匈奴(北匈奴)の子孫であり、テュルク系民族がユーラシア大陸に広がった最初の端緒である」とする説がある。(フン族#「フン族」=「匈奴」説を参照)
  7. ^ 冉魏、代、西燕、翟魏、譙蜀は十六国としてカウントされない[16]
  8. ^ 禿髪傉檀の子である禿髪破羌が北魏に降った時に与えられた「源氏」は、「源を同じにする」という事から、日本の皇別氏族・源氏の氏族名の由来となった。また、禿髪烏孤の子にあたる禿髪樊尼が滅亡後にチベットへ逃れ、吐蕃を建国したという伝説もある。
  9. ^ 滅亡後、沮渠牧犍の弟にあたる沮渠無諱沮渠安周高昌国(高昌北涼)を建てた。
  10. ^ これについては開始の定義が存在しないため、北魏末代・元脩の西遷による東魏の成立を開始とした。
  11. ^ その後、使者段確を殺害し、李世民東都平定に伴い処刑
  12. ^ 北宋を滅ぼしたが南宋は滅ぼしておらず、また金の滅亡時にはモンゴル帝国南宋が共に出兵しているため、勝敗については記述しないものとした。
  13. ^ 始皇帝武帝は西方に出兵しては植民地化(置県)し、そこを守らせた。
  14. ^ 『乾隆大清会典則例』によると、乾隆帝期の緑営は66鎮、1169営だったとされる。ここでの鎮は最大の軍事単位で、営は最小単位。

出典

  1. ^ 『図説 中国文明史2 殷周 文明の原点』 稲畑耕一郎:監修 株式会社創元社 2007年
  2. ^ a b c 夏商周断代工程的主要成就
  3. ^ Shaughnessy, Edward L. (1999). “Western Zhou History”. The Cambridge History of ancient China - From the Origins of Civilization to 221 B.C. Cambridge: Cambridge University Press. pp. 331. ISBN 9780521470308
  4. ^ 李衛公問対
  5. ^ a b ロバート・テンプル、牛山輝代訳 『図説 中国の科学と文明』 河出書房新社、2008年。ISBN 978-4-309-22486-2 pp.370-380
  6. ^ First use of a crossbow(ギネス記録 2019.5.9参照)
  7. ^ 宋襄の仁-コトバンク
  8. ^ 史記 巻五 秦本紀第五》:七年,楽池相秦。韓・趙・魏・燕・斉帥匈奴共攻秦。秦使庶長疾与戦修魚,虜其将申差,敗趙公子渇、韓太子奐,斬首八万二千。
  9. ^ 史記 巻五 秦本紀》:十一年,斉与韓・魏・趙・宋・中山五国共攻秦,至塩氏而還。秦与韓・魏河北及封陵以和。
  10. ^ 資治通鑑 巻四 周紀四》:斉・韓・魏・趙・宋同撃秦,至塩氏而還。秦与韓武遂、与魏封陵以和。
  11. ^ 姓は『史記 燕世家』では周と同じく「姫姓」だが、殷墟の『卜辞』および『史記索隠』が引く『竹書紀年』によれば、姞姓。
  12. ^ 『史記・秦本紀』による記述。
  13. ^ 後漢書「献帝紀」
  14. ^ 川本芳昭 『中華の崩壊と拡大 魏晋南北朝』 講談社〈中国の歴史05〉、2005年2月。P50
  15. ^ 十六国春秋』、中国語版ウィキソース
  16. ^ 岡崎文夫『魏晋南北朝通史内編』安田二郎[解説]、平凡社東洋文庫〉、1989年7月(原著1932年9月)。ISBN 978-4-582-80506-2 
  17. ^ 『宋史』巻46 度宗本紀 咸淳9年2月庚戌条「呂文煥以襄陽府帰大元」
  18. ^ 『続資治通鑑』宋紀一百八十
  19. ^ 『唐宋変革論』内藤湖南
  20. ^ 『元史』亦思馬因伝、阿里海牙伝
  21. ^ 東方見聞録マルコ・ポーロ
  22. ^ 元史』巻6 世祖本紀
  23. ^ 加藤和『ティームール朝成立史の研究』P211-212
  24. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』P71
  25. ^ a b 三田村泰助『世界の歴史14 明と清』河出書房新社、1969年(河出文庫、1990年)
  26. ^ 『火龍神器陣法』
  27. ^ 『火攻罕要』
  28. ^ 武備志
  29. ^ "十全の武功". ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. コトバンクより2020年7月11日閲覧
  30. ^ 2023 Military Strength Ranking” (英語). www.globalfirepower.com. 2023年11月6日閲覧。





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