中国の軍事史
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清代
明清交替にあたっては、清は明の兵器技術などを踏襲し、また八旗制や緑営、清朝末期には郷勇など、様々な組織が編み出された[注釈 14]。
このような兵制も背景にして、清は旧明領から西方への侵攻を開始した。手始めにグーシ・ハーンの治める青海を(雍正のチベット分割)、そしてチベットや勢力を伸長しつつあったガルダン・ハーンのジュンガルを征服し、これらを自治を認める同君連合に組み入れた。また乾隆帝の治世には、第3次清・ジュンガル戦争以外にも、大小金川の戦い、清・ネパール戦争、大小和卓の乱、林爽文事件、清緬戦争、ドンダーの戦いを戦い、「全て勝った」ということで、自ら十全老人を名乗ったほどであった[29]。しかしアヘン戦争頃になると、兵装は周回遅れのものとなり、南京条約による領土の割譲、日清戦争での敗北以後、列強により瓜分される事態が発生する。これが漢民族による新国家建設運動、辛亥革命の一因となった。
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ジュンガル征服の図
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清軍の近代化のために用いられた北洋新軍
辛亥革命以後
軍閥乱立の国内情勢を北伐によって終結させ中国を統一した中華民国は、さらに日中戦争を連合国による支援と国共合作の元で勝利した。第二次国共内戦にて国民政府を中国共産党が破り、中華人民共和国を建国した後、日中戦争と国共内戦時代の党の私兵集団である紅軍を人民解放軍として再編成し、朝鮮戦争にてアメリカ率いる多国籍軍を撃破して勇名を馳せた。
鄧小平政権時代の軍縮を経て、航空母艦(遼寧・山東)や第5世代ジェット戦闘機(J-20)など現代的ハイテク軍備の導入に踏み切り、軍の現代化を着実に進みつつ、現在は世界第3位の軍事力を保有しているとされる[30]。
注釈
- ^ 夏王朝の建国をBC1920年とし、史書の471年続いたという記述より逆算。
- ^ 名目上はこれによる王位簒奪防止であるが、これを言いがかりにした旧殷勢力による蜂起である。
- ^ 前者は主な晋領の分割が行われ、諸侯に列せられるまで。後者は晋の静公の領土分割。
- ^ 実際は足並みが揃わず、三晋(魏・趙・韓)しか参戦していない。
- ^ これは最後に残った成家の公孫述を滅ぼした年。
- ^ 「フン族は紀元前3世紀頃に中国の北方に勢力があった匈奴(北匈奴)の子孫であり、テュルク系民族がユーラシア大陸に広がった最初の端緒である」とする説がある。(フン族#「フン族」=「匈奴」説を参照)
- ^ 冉魏、代、西燕、翟魏、譙蜀は十六国としてカウントされない[16]。
- ^ 禿髪傉檀の子である禿髪破羌が北魏に降った時に与えられた「源氏」は、「源を同じにする」という事から、日本の皇別氏族・源氏の氏族名の由来となった。また、禿髪烏孤の子にあたる禿髪樊尼が滅亡後にチベットへ逃れ、吐蕃を建国したという伝説もある。
- ^ 滅亡後、沮渠牧犍の弟にあたる沮渠無諱と沮渠安周は高昌国(高昌北涼)を建てた。
- ^ これについては開始の定義が存在しないため、北魏末代・元脩の西遷による東魏の成立を開始とした。
- ^ その後、使者段確を殺害し、李世民の東都平定に伴い処刑
- ^ 金は北宋を滅ぼしたが南宋は滅ぼしておらず、また金の滅亡時にはモンゴル帝国と南宋が共に出兵しているため、勝敗については記述しないものとした。
- ^ 始皇帝や武帝は西方に出兵しては植民地化(置県)し、そこを守らせた。
- ^ 『乾隆大清会典則例』によると、乾隆帝期の緑営は66鎮、1169営だったとされる。ここでの鎮は最大の軍事単位で、営は最小単位。
出典
- ^ 『図説 中国文明史2 殷周 文明の原点』 稲畑耕一郎:監修 株式会社創元社 2007年
- ^ a b c 夏商周断代工程的主要成就
- ^ Shaughnessy, Edward L. (1999). “Western Zhou History”. The Cambridge History of ancient China - From the Origins of Civilization to 221 B.C. Cambridge: Cambridge University Press. pp. 331. ISBN 9780521470308
- ^ 『李衛公問対』
- ^ a b ロバート・テンプル、牛山輝代訳 『図説 中国の科学と文明』 河出書房新社、2008年。ISBN 978-4-309-22486-2 pp.370-380
- ^ First use of a crossbow(ギネス記録 2019.5.9参照)
- ^ 宋襄の仁-コトバンク
- ^ 《史記 巻五 秦本紀第五》:七年,楽池相秦。韓・趙・魏・燕・斉帥匈奴共攻秦。秦使庶長疾与戦修魚,虜其将申差,敗趙公子渇、韓太子奐,斬首八万二千。
- ^ 《史記 巻五 秦本紀》:十一年,斉与韓・魏・趙・宋・中山五国共攻秦,至塩氏而還。秦与韓・魏河北及封陵以和。
- ^ 《資治通鑑 巻四 周紀四》:斉・韓・魏・趙・宋同撃秦,至塩氏而還。秦与韓武遂、与魏封陵以和。
- ^ 姓は『史記 燕世家』では周と同じく「姫姓」だが、殷墟の『卜辞』および『史記索隠』が引く『竹書紀年』によれば、姞姓。
- ^ 『史記・秦本紀』による記述。
- ^ 後漢書「献帝紀」
- ^ 川本芳昭 『中華の崩壊と拡大 魏晋南北朝』 講談社〈中国の歴史05〉、2005年2月。P50
- ^ 『十六国春秋』、中国語版ウィキソース
- ^ 岡崎文夫『魏晋南北朝通史内編』安田二郎[解説]、平凡社〈東洋文庫〉、1989年7月(原著1932年9月)。ISBN 978-4-582-80506-2。
- ^ 『宋史』巻46 度宗本紀 咸淳9年2月庚戌条「呂文煥以襄陽府帰大元」
- ^ 『続資治通鑑』宋紀一百八十
- ^ 『唐宋変革論』内藤湖南
- ^ 『元史』亦思馬因伝、阿里海牙伝
- ^ 『東方見聞録』マルコ・ポーロ
- ^ 『元史』巻6 世祖本紀
- ^ 加藤和『ティームール朝成立史の研究』P211-212
- ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』P71
- ^ a b 三田村泰助『世界の歴史14 明と清』河出書房新社、1969年(河出文庫、1990年)
- ^ 『火龍神器陣法』
- ^ 『火攻罕要』
- ^ 『武備志』
- ^ "十全の武功". ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. コトバンクより2020年7月11日閲覧。
- ^ “2023 Military Strength Ranking” (英語). www.globalfirepower.com. 2023年11月6日閲覧。
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