中国の軍事史
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秦代
秦代には既存の長城を繋ぎ合わせ、万里の長城の原型が築かれた。二世皇帝嬴胡亥が宦官趙高の傀儡となり、万里の長城に漆を塗らせようとしたという伝承があるが、当時の万里の長城は高々数メートル程度のもので、明代の長城と比べると、版築を施した馬防柵といったようなものであった。
戦争名 | 戦争年間 | 攻撃側(君主名) | 防衛側(君主名) | 原因 | 勝者 | 結果・講和条件 |
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陳勝・呉広の乱 | BC209〜BC208 | 張楚(陳勝) | 秦朝(嬴胡亥) | 宦官趙高の暴政と苛烈な秦の法 | 防衛側(秦・嬴胡亥) | 荘賈の陳勝殺害と投降、反秦戦争の誘引 |
反秦戦争 | BC208〜BC206 | 楚(熊心) | 秦(嬴胡亥) | 宦官趙高の暴政と苛烈な秦の法 | 攻撃側(楚・熊心) | 趙高による嬴胡亥暗殺、嬴子嬰の劉邦への降伏 |
楚漢戦争 | BC206〜BC202 | 漢(劉邦) | 楚(項羽) | 覇王項羽の暴政 | 攻撃側(漢・劉邦) | 漢による中華再統一、項羽の死亡 |
漢代
前漢時代は、第1次漢匈戦争での敗北と屈辱的講和から始まり、文景の治という安定期を挟み、第2次・第3次漢匈戦争という逆襲の時代であった。内政においては、文景の治末期の呉楚七国の乱により、皇帝への権力集中に成功し、武帝の時期に全盛を迎えた。また財政難解決のため、塩鉄専売制を実施し、郷挙里選の実施により楚漢戦争の元勲らの権力を徹底的に弱めたが、地方の有力豪族の貴族化を招くこととなった。
しかし新の王莽による簒奪によって、武帝の対外膨張政策によって得た領土の維持ができなくなり、長城の一部を放棄することとなった。また、新末後漢初の戦乱により本土は荒れ果て、一時は維持だけで手一杯となった。しかし後漢時代には匈奴側での旱魃を原因として南北匈奴の分裂と南匈奴の服属があり、再興に成功した。また鮮卑の檀石槐も台頭したが、檀石槐の死による瓦解に助けられ、後漢は黄巾の乱まで外戚・宦官・官僚の対立がありつつも何とか持ちこたえた(例:党錮の禁)。
また、漢代には匈奴側でも都市建設が行われており、後の五胡十六国時代の夏が首都とした統万城には甕城の原型とみられるものがあったとされる。攻城戦術も発達し、高い城壁で守った都市に対しては坑道戦が行われることもあった(例:易京の戦い)[13]。
戦争名 | 戦争年間 | 攻撃側(君主名) | 防衛側(君主名) | 原因 | 勝者 | 結果・講和条件 |
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第1次漢匈戦争 | BC200〜BC192 | 漢(劉邦) | 匈奴(冒頓単于) | 劉邦の北伐 | 防衛側(匈奴・冒頓単于) | 白登山の戦いでの大敗、匈奴兄漢弟として毎年貢物を送る |
呉楚七国の乱 | BC154 | 呉(劉濞) | 漢(劉啓) | 劉啓による劉賢の六博での誤殺 | 防衛側(漢・劉啓) | 裏切りによる劉濞の死、郡国制の事実上の郡県制化、帝権強化 |
第2次漢匈戦争 | BC133〜BC119 | 漢(劉徹) | 匈奴(軍臣単于) | 漢側馬邑の謀の発覚による断交 | 攻撃側(漢・劉徹) | 匈奴の河西回廊失陥と酒泉郡設置 |
武帝の朝鮮侵攻 | BC109〜BC108 | 漢(劉徹) | 衛氏朝鮮(衛右渠) | 参上要求の拒否 | 攻撃側(漢・劉徹) | 漢四郡の設置 |
武帝の南越国・閩越侵攻 | BC112 BC110 |
漢(劉徹) | 南越(趙建徳) 閩越 |
呂嘉の独立志向 | 攻撃側(漢・劉徹) | 南海郡・日南郡などの設置 |
武帝の大宛侵攻 | BC102 | 漢(劉徹) | 大宛(毋寡) | 汗血馬取引のこじれ | 攻撃側(漢・劉徹) | 大宛の属国化、漢の西域支配の拡大 |
第3次漢匈戦争 | BC103〜BC71 | 漢(劉徹) | 匈奴(且鞮侯単于) | 匈奴の傲慢不遜な漢への態度 | 攻撃側(漢・劉徹) | 匈奴のさらなる弱体化 |
赤眉の乱 後漢建国戦争 |
AD20〜AD23 AD23〜AD36[注釈 5] |
緑林軍(劉玄) 赤眉軍(劉秀) |
新(王莽) 緑林軍(劉玄) |
攻撃側(緑林軍・劉玄) 攻撃側(赤眉軍・劉秀) |
王莽の暴政 劉玄の政務放棄・乱心 |
後漢の成立 |
北匈奴の放逐 | AD89 | 漢(劉肇) | 北匈奴 | 南匈奴休蘭尸逐侯鞮単于の討伐上奏 | 攻撃側(漢・劉肇) | 北匈奴の衰退、フン族の欧州侵攻(?)[注釈 6] |
黄巾の乱 | AD184 | 黄巾賊(張角) | 後漢(劉宏) | 売官や賄賂、権力闘争の激化による苛政 | 防衛側(後漢) | 張純の乱など諸兵乱の誘発、後漢の事実上の崩壊、魏・曹丕への禅譲 |
三国時代
三国時代には、河川が国境となったこともあり、水軍が発達した。水軍戦の最たる例が赤壁の戦いである。秦統一までの「中華」である中原地域の魏と河南地域を根拠とする呉・蜀政権の戦いでは、水軍戦に不得手であった魏が大敗し、以降数十年間の国境が確定することとなった。魏は内乱の火種を抱えつつも蜀を滅ぼしたが、内乱を収めた司馬氏による簒奪を受けた。そして後継の西晋が呉を滅ぼし、中華を統一した[14]。
戦争名 | 戦争年間 | 攻撃側(君主名) | 防衛側(君主名) | 原因 | 勝者 | 結果・講和条件 |
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蜀漢の滅亡 | 263 | 魏(曹奐) | 蜀(劉禅) | ー | 攻撃側(魏・曹奐) | 蜀領の併合 |
呉の滅亡 | 279〜280 | 晋(司馬炎) | 呉(孫晧) | 晋の中華統一政策 | 攻撃側(晋・司馬炎) | 晋の中華統一 |
注釈
- ^ 夏王朝の建国をBC1920年とし、史書の471年続いたという記述より逆算。
- ^ 名目上はこれによる王位簒奪防止であるが、これを言いがかりにした旧殷勢力による蜂起である。
- ^ 前者は主な晋領の分割が行われ、諸侯に列せられるまで。後者は晋の静公の領土分割。
- ^ 実際は足並みが揃わず、三晋(魏・趙・韓)しか参戦していない。
- ^ これは最後に残った成家の公孫述を滅ぼした年。
- ^ 「フン族は紀元前3世紀頃に中国の北方に勢力があった匈奴(北匈奴)の子孫であり、テュルク系民族がユーラシア大陸に広がった最初の端緒である」とする説がある。(フン族#「フン族」=「匈奴」説を参照)
- ^ 冉魏、代、西燕、翟魏、譙蜀は十六国としてカウントされない[16]。
- ^ 禿髪傉檀の子である禿髪破羌が北魏に降った時に与えられた「源氏」は、「源を同じにする」という事から、日本の皇別氏族・源氏の氏族名の由来となった。また、禿髪烏孤の子にあたる禿髪樊尼が滅亡後にチベットへ逃れ、吐蕃を建国したという伝説もある。
- ^ 滅亡後、沮渠牧犍の弟にあたる沮渠無諱と沮渠安周は高昌国(高昌北涼)を建てた。
- ^ これについては開始の定義が存在しないため、北魏末代・元脩の西遷による東魏の成立を開始とした。
- ^ その後、使者段確を殺害し、李世民の東都平定に伴い処刑
- ^ 金は北宋を滅ぼしたが南宋は滅ぼしておらず、また金の滅亡時にはモンゴル帝国と南宋が共に出兵しているため、勝敗については記述しないものとした。
- ^ 始皇帝や武帝は西方に出兵しては植民地化(置県)し、そこを守らせた。
- ^ 『乾隆大清会典則例』によると、乾隆帝期の緑営は66鎮、1169営だったとされる。ここでの鎮は最大の軍事単位で、営は最小単位。
出典
- ^ 『図説 中国文明史2 殷周 文明の原点』 稲畑耕一郎:監修 株式会社創元社 2007年
- ^ a b c 夏商周断代工程的主要成就
- ^ Shaughnessy, Edward L. (1999). “Western Zhou History”. The Cambridge History of ancient China - From the Origins of Civilization to 221 B.C. Cambridge: Cambridge University Press. pp. 331. ISBN 9780521470308
- ^ 『李衛公問対』
- ^ a b ロバート・テンプル、牛山輝代訳 『図説 中国の科学と文明』 河出書房新社、2008年。ISBN 978-4-309-22486-2 pp.370-380
- ^ First use of a crossbow(ギネス記録 2019.5.9参照)
- ^ 宋襄の仁-コトバンク
- ^ 《史記 巻五 秦本紀第五》:七年,楽池相秦。韓・趙・魏・燕・斉帥匈奴共攻秦。秦使庶長疾与戦修魚,虜其将申差,敗趙公子渇、韓太子奐,斬首八万二千。
- ^ 《史記 巻五 秦本紀》:十一年,斉与韓・魏・趙・宋・中山五国共攻秦,至塩氏而還。秦与韓・魏河北及封陵以和。
- ^ 《資治通鑑 巻四 周紀四》:斉・韓・魏・趙・宋同撃秦,至塩氏而還。秦与韓武遂、与魏封陵以和。
- ^ 姓は『史記 燕世家』では周と同じく「姫姓」だが、殷墟の『卜辞』および『史記索隠』が引く『竹書紀年』によれば、姞姓。
- ^ 『史記・秦本紀』による記述。
- ^ 後漢書「献帝紀」
- ^ 川本芳昭 『中華の崩壊と拡大 魏晋南北朝』 講談社〈中国の歴史05〉、2005年2月。P50
- ^ 『十六国春秋』、中国語版ウィキソース
- ^ 岡崎文夫『魏晋南北朝通史内編』安田二郎[解説]、平凡社〈東洋文庫〉、1989年7月(原著1932年9月)。ISBN 978-4-582-80506-2。
- ^ 『宋史』巻46 度宗本紀 咸淳9年2月庚戌条「呂文煥以襄陽府帰大元」
- ^ 『続資治通鑑』宋紀一百八十
- ^ 『唐宋変革論』内藤湖南
- ^ 『元史』亦思馬因伝、阿里海牙伝
- ^ 『東方見聞録』マルコ・ポーロ
- ^ 『元史』巻6 世祖本紀
- ^ 加藤和『ティームール朝成立史の研究』P211-212
- ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』P71
- ^ a b 三田村泰助『世界の歴史14 明と清』河出書房新社、1969年(河出文庫、1990年)
- ^ 『火龍神器陣法』
- ^ 『火攻罕要』
- ^ 『武備志』
- ^ "十全の武功". ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. コトバンクより2020年7月11日閲覧。
- ^ “2023 Military Strength Ranking” (英語). www.globalfirepower.com. 2023年11月6日閲覧。
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