白登山の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/05 13:01 UTC 版)
座標: 北緯40度07分58秒 東経113度23分02秒 / 北緯40.13274度 東経113.38384度
白登山の戦い | |
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![]() 大同市付近の万里の長城 | |
戦争:匈奴軍が万里の長城を超え、漢の領土に侵攻 | |
年月日:紀元前200年 | |
場所:白登山 (中国山西省大同市の北部) | |
結果:匈奴の勝利 | |
交戦勢力 | |
漢 | 匈奴 |
指導者・指揮官 | |
高帝 | 冒頓単于 |
損害 | |
不明 | 不明 |
白登山の戦い(はくとさんのたたかい)は、紀元前200年に行われた匈奴と漢の戦いである。
経過
父の頭曼単于を殺して紀元前209年に単于になった冒頓単于は東の東胡・北の丁零・西の月氏などを討ってその地を奪い、勢力を大きく拡大していた[1][2]。一方南では紀元前202年に劉邦が中原を統一して漢を建てた[3][4](高帝)。
統一の翌紀元前201年に高帝は韓王信を太原郡の故地に封じ、晋陽(現在の太原市)を守らせたが、同年に冒頓率いる匈奴の軍が万里の長城を越えて馬邑に攻め込んだ[5][6]。迎撃に向かった韓王信を包囲し、韓王信を降伏させた[5][7]。これに怒った高帝は親征して晋陽を攻め落とした[5][7]が、弱兵を表に出して誘引するという匈奴の策略に引っかかって[5]、さらに追撃してしまい、平城(現在の山西省大同市)近くの白登山(現在の大同市雲州区)で匈奴の大軍に包囲された[5][7]。高帝は陳平からの献策を受けて、この危機を何とか脱出した[5][7]。
この戦いにより匈奴の強さを知った高帝は紀元前198年に劉敬を匈奴に派遣して和約を結んだ[5][7]。
- 漢と匈奴は兄弟となる。
- 漢の公主を匈奴単于の閼氏とする。
- 毎年、漢から匈奴へ贈り物をする。
この和約後に何度か匈奴が漢の領土に侵攻し、再び和睦するということが繰り返された[5][8]。この状況が動くのはおおよそ60年後の武帝の代になる[9]。
脚注
出典
参考文献
白登山の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 05:42 UTC 版)
詳細は「白登山の戦い」を参照 冒頓が北の渾庾、屈射、丁零、鬲昆、薪犁といった諸族を服属させた頃、中原では漢の劉邦が楚漢戦争を終結させて皇帝の座に就いていた(高帝)。紀元前200年に匈奴は馬邑城の韓王信を攻撃し、降伏させることに成功した。匈奴はそのまま太原に侵入し、晋陽に迫った。そこへ高帝率いる漢軍が到着するが、大雪と寒波に見舞われ、多くの兵が凍傷にかかった。冒頓は漢軍をさらに北へ誘い込むべく偽装撤退を行うと、高帝は匈奴軍を追った挙句に白登山へ誘い込まれ、7日間包囲された。高帝は陳平の献策により冒頓の閼氏(中国語版)(えんし:単于の母、妻)を動かして攻撃を思い止まらせその間に逃走した。これ以降、漢は匈奴に対して毎年貢物を送る条約を結び、低身外交に徹した。
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