パラマウント・ピクチャーズ
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パラマウント・ピクチャーズ・コーポレーション(Paramount Pictures Corporation)は、アメリカの映画およびテレビ番組の製作・配給会社であり、パラマウント・グローバルの子会社。世界で5番目に古い映画スタジオであり[1]、アメリカでは2番目に古い(ユニバーサル・ピクチャーズ設立の8日後)1912年に設立された映画スタジオ。「ビッグ5」と呼ばれるアメリカの映画スタジオの中で唯一、現在もロサンゼルス市内に存在する。
- 1 パラマウント・ピクチャーズとは
- 2 パラマウント・ピクチャーズの概要
パラマウント・ピクチャーズ
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「アルフレッド・ヒッチコック」の記事における「パラマウント・ピクチャーズ」の解説
1953年夏、ヒッチコックは自身のエージェントであるMCAのルー・ワッサーマンを介して、パラマウント・ピクチャーズと5本の映画を製作または監督し、その利益に対する歩合と作品の最終的な所有権をヒッチコック側が持つという契約を結んだ。その最初の作品はコーネル・ウールリッチの短編小説が原作の『裏窓』で、放送作家のジョン・マイケル・ヘイズ(英語版)に脚本を依頼した。この作品は足を骨折して車椅子生活を送る写真家(ジェームズ・ステュアート)が、双眼鏡で向かいのアパートの住人たちを観察するうち、そのうちの1部屋で殺人が行われたことに気付くという物語で、前作に続いてグレース・ケリーがヒロインを演じた。撮影は順調に進み、スタッフや俳優との関係も良好だった。ヒッチコックも機嫌が良く、以前のようなエネルギーと創作への熱意を取り戻し、後年には「この頃は自分のバッテリーがほんとうにフルに充電されていると思った」と述べている。1954年8月に公開されると好評を博し、公開から2年間で興行収入は1000万ドルを超えた。第27回アカデミー賞ではヒッチコックが監督賞にノミネートされた。 1954年初め、ヒッチコックはパラマウントの重役の勧めでデイヴィッド・ドッジの小説が原作の『泥棒成金』の製作を始めた。この作品は宝石泥棒の疑いをかけられた元泥棒(グラント)と、彼と恋したアメリカ人女性(ケリー)が主人公のロマンチックなサスペンスで、ビスタビジョンを使用したワイドスクリーン映画として作られた。ヒッチコックは前作で組んだヘイズと脚本を書き、初夏に物語の舞台となるフランスのリヴィエラでロケ撮影をした。翌1955年8月に公開されると北米だけで450万ドルの利益を出したが、批評家の意見は分かれた。この作品の撮影中、ヒッチコックはヘイズにジャック・トレヴァー・ストーリー(英語版)の短編小説が原作の『ハリーの災難』の脚本を依頼した。この作品はバーモント州の田舎を舞台に、ハリーの死で罪の意識を感じた町の人たちを描くブラック・コメディである。撮影は1954年後半に行われ、1955年10月に公開された。ヒッチコックは日本を含む世界各地を旅して宣伝に努めたが、フランス以外の国では客入りは悪く、批評も芳しくなかった。 1955年4月20日、ヒッチコックはロサンゼルス郡裁判所でアメリカ合衆国の市民権を取得した。それまでにはジェームズ・ステュアートとドリス・デイが主演の次回作『知りすぎていた男』の脚本をヘイズと作成した。この作品は『暗殺者の家』のリメイクだが、プロットにはさまざまな変更を付け加えており、後年にヒッチコックは「最初のイギリス版(『暗殺者の家』)はなにがしかの才能のあるアマチュアがつくった映画だったが、リメークのアメリカ版(『知りすぎていた男』)はプロがつくった映画だった」と述べている。撮影は同年7月までに行われ、1956年5月に公開されると興行的成功を収め、公開から1週間のうちにその年のアメリカで最高の興行収入を出した。
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