パラマウント時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/19 18:32 UTC 版)
「プレストン・スタージェス」の記事における「パラマウント時代」の解説
1940年にはパラマウント映画の上層部を「脚本料は1ドルで構わないから」と根気強く説得し、自ら脚本を書いた政治コメディ『偉大なるマッギンティ』で映画監督デビュー。脚本家出身の映画監督第1号となる。前例のない脚本家出身の監督ということで不安の声もあったが、本作は大ヒットを記録し、またアカデミー脚本賞オリジナル部門を受賞するなど快挙を成し遂げる。 勢いに乗ったスタージェスは、立て続けに『七月のクリスマス』『レディ・イヴ』を送り出し、ハリウッドに旋風を起こす。スタージェスの作品はそれまでの映画には当たり前だった感傷的な場面、社会的メッセージを全て排し、スラップスティック・コメディとソフィスティケーティッド・コメディの要素をそれぞれ合わせた唐突なストーリー展開を持つものだった。 監督のみならず製作も手掛け、『サリヴァンの旅』『結婚五年目(再公開時題名:パームビーチ・ストーリー)』とまたもヒットを飛ばす。1942年、フランスから亡命してきたルネ・クレール監督のハリウッド映画『奥様は魔女』ではプロデューサーを務める。 この当時、パラマウントではスタージェスとセシル・B・デミルが2大看板監督だったが、製作費が膨大な上に撮影スケジュールを守らなかったデミルが上層部から好意的に見られなかった一方、スタージェスは経済的に仕事を進めていたために信頼も厚かった。また、サービス精神旺盛な性格から撮影現場も打ち解けた雰囲気があり、多くの俳優はデミルよりスタージェスの仕事を選んだという。 1944年の『凱旋の英雄万歳』と『モーガンズ・クリークの奇跡』は共にアカデミー脚本賞にノミネートされるが、この頃から製作費が高騰し始め、批評と興行面での失敗も続いたことから製作条件は次第に悪化。『偉大なる瞬間』を最後にパラマウントを去る。
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