サイパン島 歴史

サイパン島

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/06 05:40 UTC 版)

歴史

北部からみたサイパン島

スペイン統治時代

1521年3月6日マゼランがヨーロッパ人として初めてマリアナ諸島を発見し、1565年にはマリアナ諸島の領有を西欧諸国に布告した。それ以降、3世紀に渡りスペインの統治下にあった。

1668年イエズス会のサンヴィトレス神父を長とする伝道使節団がマリアナ諸島のグアム島に来訪して以来、マリアナ諸島全域で住民のキリスト教化が始まった。当初の布教は順調であったが、先住民の習慣に干渉する神父たちに島民は反感を抱くようになり、1670年1月にサイパン島で先住民による伝道師殺害事件が起きた。この事件がその後十数年に及ぶスペイン=チャモロ戦争の発端となり、スペインは軍隊を派遣して先住民を虐殺した。

その後、1695年にスペインはサイパン以北のマリアナ諸島の先住民をサイパン島に強制移住させたが、それらの島民も1698年にサイパン島に元からいた先住民と共にグアム島へ強制移住させられ、サイパン島は一時無人島となった。

その後100年以上無人島となったが、1815年にはカロリン諸島サタワル島から酋長アグルブに率いられた一団が移住し、更にスペインは、チャモロ人の帰島を認めたため再び同島は有人島となった。

ドイツ統治時代

1898年に、米西戦争でスペインの支配は終わりドイツに売却される。ドイツは、本国から遠く離れたこの島の開拓および先住民への教育政策を放棄したのみならず、同島を流刑地に選んだ。その結果、スペインの政策の下で再度有人島となり、スペイン人とチャモロ人による開発が進み始めたサイパン島内は、一転して荒廃が進むことになる。

日本統治時代

南洋庁サイパン支庁
日本統治時代のサイパン

1914年(大正3年)7月第一次世界大戦が勃発し、10月14日には連合国の主要構成国として参戦した日本軍がドイツ軍を放逐し、赤道以北の南洋諸島全体を占領した。大戦終結後に日本イギリス、アメリカ、フランスイタリアの戦勝国(五大国)が主導して行われたパリ講和会議の結論を受けて、1920年(大正9年)に日本の委任統治領となり、南洋庁サイパン支庁が設置された。

当時の記述は彩帆島。日本の委任統治開始後は、これまでサイパンを支配していたドイツが放棄していた都市開発や公衆衛生、産業振興、地元民への教育政策が急速に推進された。

日本による委任統治領となった後は、サイパン島は内地から南洋への玄関口として栄え、サイパンで産出された砂糖の積み出し港としての役割にとどまらず、同じく日本の委任統治領であるパラオマーシャル諸島、カロリン諸島などとの間での貿易の中継地点としても発展した。この時期には、プランテーションにおける労働力、港湾荷役労働者、貿易商、行政官吏として、日本(主に沖縄県出身者)や台湾朝鮮からの移民が移住した。

その間、準国策会社の南洋興発株式会社(本社所在地はサイパン島・チャランカノア[2])がサイパン島、ロタ島、テニアン島に製糖所を建設し、アジア最大の製糖産地として発展させた。設立者(社長)の松江春次は、「砂糖王(シュガーキング)」と呼ばれ、彼の功績が称えられて、彩帆神社境内に「彩帆公園(現砂糖王公園)」が造園され、現職社長としては異例の寿像が建立された。

第二次世界大戦

第二次世界大戦前には、日本軍の太平洋における要衝の1つとして日本軍司令部が設置され、横浜港から大日本航空の定期便が運行されるなど軍民共に行き来が活発になった。大戦勃発後は日本海軍の太平洋戦線における重要拠点となった。1943年(昭和18年)8月の時点での人口は日本人(外地出身者含む)29,348人、チャモロ人カナカ人3,926人、外国人11人となっていた。

しかし、大戦末期の1944年(昭和19年)6月アメリカ軍をはじめとする連合国軍の上陸の際には、住民を巻き込んだ激しい戦闘によって多数の犠牲者を出した。現在でもバンザイクリフ (Banzai Cliff) やスーサイドクリフ (Suicide Cliff) など島のあちこちに戦争の名残がある。

アメリカ統治時代

サイパンを行幸啓する上皇・上皇后

1944年7月以来、サイパン島は、連合国の一国であるアメリカ軍の軍政下に置かれたが、1947年国際連合信託統治領太平洋諸島信託統治領(施政権者:アメリカ合衆国)」となった。1981年1月9日、アメリカ合衆国内の自治領である「北マリアナ諸島」としてアメリカ合衆国内に留まったが、北マリアナ諸島以外は次々と分離独立していった。

日本からやって来る戦没者慰霊団の宿泊施設として、1977年にハファダイビーチホテルが創業して以来、日本人観光客が多く訪れるようになり、1980年代に入ると、日本のデベロッパーからの投資が活発に行われ、日本航空や第一ホテルなどにより多くのリゾートホテルゴルフ場が建設された。しかしその後日本のリゾート渡航先の多様化などを受け日本人観光客が減り、2000年代に入ると日系ホテルの撤退が相次いだ上に、日本航空も乗り入れを取りやめた。

第二次世界大戦終戦60年にあたる2005年には、6月27日から翌28日にかけて上皇明仁・上皇后美智子が戦没者を慰霊するため、当時としては天皇が史上初めて友好親善ではない慰霊目的だけの海外訪問として当地に行幸した。

連邦化

アメリカにおける北マリアナ諸島の連邦化にともない、2009年11月28日よりグアム・北マリアナ諸島ビザ免除プログラムが開始した。日本国籍者を含む14の国籍者は、プログラムの対象となるため、45日以内の滞在であり、有効なパスポートがあるならば、ビザ免除かつESTA申請なしでサイパン島を含む北マリアナ諸島に滞在できる。

なお、連邦化は本来ならば2009年6月1日から実施する予定であったが、連邦化への準備不足のほか、入国審査の厳格化によって中国ロシアからの渡航者に対して入国ビザが必要となると、観光収入が減少するおそれがあるとして住民の反対運動が起き、施行が180日延期された。

これに対しアメリカ連邦政府は、中国国籍者とロシア国籍者に対しては北マリアナ諸島への渡航に限り、45日間の臨時入国許可を認めることにしたため、両国籍者は現在でもビザなしで北マリアナ諸島を訪れることが可能である[3]。このため、両国からの直行便やチャーター便が多数運行されている。また、中国国籍者によるアメリカ永住権所得を目的とした、サイパン島内での子女出産が増加している。


  1. ^ NOWData - NOAA Online Weather Data”. NOAA. 2015年2月16日閲覧。
  2. ^ 社団法人・同盟通信社『時事年鑑・昭和14年版』1938年(昭和13年),巻末の広告より
  3. ^ ロシア連邦及び中国国籍の方の北マリアナ諸島連邦(CNMI)へのみの臨時入国許可 - 米国大使館(東京)[リンク切れ]
  4. ^ 『外交記録公開目録』(平成26年11月28日公表 外務省移管ファイル)管理番号: 2014-6143「在ボストン総領事館、在サイパン出張駐在官事務所設置」
  5. ^ 石森秀三「観光立国の光と影」/ 印東道子編著『ミクロネシアを知るための58章』明石書店 2005年 206-207ページ
  6. ^ guam's only local japanese newspaper 2017年8月4日号閲覧
  7. ^ ホテル事業の一部撤退に関するお知らせ』(PDF)(プレスリリース)近畿日本ツーリスト、2004年9月22日、1-2頁。 オリジナルの2015年4月28日時点におけるアーカイブhttps://web.archive.org/web/20150428081642/http://www.kntcthd.co.jp/ir/news/pdf/hotel_h16.9.pdf2017年9月8日閲覧 






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