舞台デビュー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 08:41 UTC 版)
「チャールズ・チャップリン」の記事における「舞台デビュー」の解説
チャップリンの初舞台は5歳の時だった。オールダーショットの劇場で舞台に立っていたハンナが出演中に喉をつぶして野次を浴びてしまい、支配人はチャップリンが舞台袖でさまざまな芸でハンナの友人たちを笑わせているのを見て、急遽代役として舞台に立たせることにした。チャップリンは舞台で歌を歌って大喝采を浴びた。この舞台出演は一時的なものだったが、チャップリンは9歳までにハンナの教えで舞台に興味を持つようになった。自伝では「母はわたしに舞台に対する興味を植え付けだした。自分には才能があると、わたしが思い込むように仕向けた」と述べている。1898年末、チャップリンは父親とのつながりを通じて、木靴ダンスのエイト・ランカシア・ラッズ(英語版)の座員となり、1899年から1900年にかけてイギリス中のミュージック・ホールを巡業した。チャップリンは懸命に働き、舞台も人気を得ていたが、やがてダンスだけでは満足せず、コメディアンになることを夢見るようになった。 チャップリンはエイト・ランカシア・ラッズと行動を共にした数年間、巡業先の学校を転々として通っていたが、13歳までに学業を断念した。チャップリンは俳優になるという目標を持ちながら、生活のために食品雑貨店の使いの小僧、診療所の受付、豪邸のボーイ、ガラス工場や印刷所の工員など、さまざまな仕事を経験した。1903年5月にハンナは病気が再発し、再びケイン・ヒル精神病院に送られた。8ヶ月後にハンナは退院したが、1905年3月に再び病状が悪化したため入院し、それ以降は病状が完全に回復することはなかった。自伝では「もはや諦めて母の運命を受け容れるしかなかった」と述べている。ハンナは1928年8月に亡くなり、チャップリンはその後数週間もショックで立ち直れなかったという。 1903年にハンナが入院した直後、チャップリンはウエスト・エンドにある俳優周旋所に名前を登録した。まもなく興行主チャールズ・フローマンの事務所の紹介で、俳優H・A・セインツベリー(英語版)の舞台『ロンドン子ジムのロマンス』の少年サム役を与えられた。舞台は1903年7月に開幕し、チャップリンのコミカルで快活な演技は批評家の賞賛を受けたが、舞台自体は成功せず2週間で打ち切られた。続いてフローマンが興行する『シャーロック・ホームズ(英語版)』でビリー役を演じ、3度の全国巡業に参加した。1905年9月の3度目の巡業中には、ホームズ役者で有名なウィリアム・ジレットの舞台に出演するためロンドンに呼ばれ、10月から12月にかけてジレット主演の『シャーロック・ホームズ』でビリー役を演じた。1906年初頭に4度目の『シャーロック・ホームズ』の全国巡業に参加し、これを最後に2年半以上演じてきたビリー役と別れを告げた。
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