V川崎・清水・協会
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1991年、読売クラブでの現役、それもレギュラーの選手ながら、加藤は日本サッカー協会から強化委員会の一員に選ばれた。日本代表としての活躍と、早稲田大学助教授という高い学識の双方の経験を買われての起用だった。1993年には強化委員会の副委員長になり、日本代表監督のオフトやファルカンへの評価を下す立場になった。一方、この1993年にJリーグが開幕し、加藤は5月15日のJリーグ開幕戦で、読売クラブが改称したヴェルディ川崎(V川崎)の選手として先発出場したが、松木安太郎監督とポジショニングを巡り対立し、以降の試合ではベンチ入りすらされなくなり、加藤は移籍を希望するようになった。ヴェルディの副社長との話し合いの末、一度は残留に傾いたが、結局、加藤はJリーグ移籍第1号選手として7月に清水へと移籍、加藤加入後の清水は優勝争いに加わったが、V川崎に競り負け優勝を逃した。同年7月17日にはJリーグオールスターサッカーに先発出場した。 1994年シーズンも清水と契約したが、埼玉県所沢市にある早稲田大学所沢キャンパスで学生指導、あるいは東京都渋谷区(当時)での日本サッカー協会で仕事をした後、東海道新幹線などを利用して清水の練習に参加する異例の長距離通勤生活は限界に近づいていた。チームも練習参加に難があり、年齢の問題もある加藤をレギュラーから外し、内藤直樹やロナウドが加藤に代わってセンターバックに入った。一方、V川崎ではネルシーニョがヘッドコーチとなって松木監督との共同指導体制に移行し、一時は移籍を決断したラモスなどのベテラン選手の不満を容れて再びブラジルスタイルへ回帰していた。この状況で、加藤は再びV川崎へ移籍(復帰)することになった。同年7月23日にはJリーグオールスターサッカーに2度目となる先発出場した。 同年7月、1年ぶりにV川崎へ復帰したが、加藤がいたセンターバックはペレイラが不動のレギュラーで(同シーズンのリーグMVP)、高卒ルーキーの廣長優志が先発出場するようになり加藤は控えに回った。加藤は現役引退を発表し、12月1日から日本サッカー協会の強化委員長となることが決まった。加藤の現役最後の公式戦はJリーグチャンピオンシップのサンフレッチェ広島戦、11月26日の第1戦(1-0)に続いて12月2日の第2戦でも先発出場、ラモスがループシュートを決めて1-0と連勝し、V川崎が2年連続での王者に輝いた。試合後に加藤は親友のラモスと抱擁し、有終の美を飾り、現役を退いた(日刊スポーツ・加藤の写真あり)。 1995年からは大学での指導と協会の仕事に携わり、ファルカン解任で就任した加茂周監督の評価を行った。1996年のアジアカップで日本代表はクウェートに敗れてベスト8に終わり、更に加茂が帰国時に体調不良を訴えると、強化委員会は加茂の更迭を主張し、後任にネルシーニョを推薦した。しかし、協会会長の長沼健はこれを退け、加茂の続投を決めた。この際ネルシーニョは協会を「腐ったみかん」と批判した。強化委員会は自らの存在意義を失い、加藤は辞任して解体状態となった。これ以後、加藤は協会の要職から外れている。
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