NASAの管理職
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「ドナルド・スレイトン」の記事における「NASAの管理職」の解説
スレイトンは1962年初頭に、新設の宇宙飛行士室のシニアマネージャーに抜擢された。彼の最初の役割の1つは、グループ2(英語版)の宇宙飛行士を選抜することであり、1962年9月に新しいクラスが発表された。さらに、将来のクルーの割り当てを任され、ゴードン・クーパーをマーキュリー・アトラス9号のミッションに割り当てた:115–122。1963年10月の組織変更で、スレイトンは宇宙飛行士室の管理業務に加えて、飛行クルー運用の副管理者となった。1963年11月、飛行資格を永久に失った後、空軍を退役し、NASAの文民幹部となった。メニエール病により飛行ミッションから外されたアラン・シェパードがスレイトンに代わって宇宙飛行士室長を務めたが、スレイトンは飛行クルー運用の仕事を続け、1966年に管理者に昇進した:133–140。スレイトンは引き続きクルーの割り当てを担当し、ジェミニ計画とアポロ計画の各ミッションで飛行する宇宙飛行士を決定した:166–168, 184。スレイトンは、あるミッションの予備搭乗員に選ばれたクルーが、その後3つ後のミッションで正搭乗員になるという、クルーのローテーションを作った:42。 アポロ1号の火災事故のとき、スレイトンは、事故が起こった34番発射台(LC-34)の建物の中にいた。スレイトンは、この事故で死亡した宇宙飛行士ガス・グリソムの親友だった。スレイトンは、通信の問題を判断するためにカプセル内で作業することを検討しており、火災発生時にはカプセルのすぐ近くで作業していたものと思われる:16–17:185, 189。火災の後、スレイトンは1967年4月に、最初に選ばれたグループの宇宙飛行士たちの会議を招集し、アポロ1号の搭乗員3人を月面着陸の最初の候補者とみなすと発表した:27。 スレイトンは、次のアポロミッションのクルー再配置を監督し、グループ6(英語版)とグループ7(英語版)の宇宙飛行士の選抜も行った。その間も心房細動の症状は続いていた。ウェッブ長官はアポロ8号を月周回飛行ミッションとすると決定したが、スレイトンは前任のクルーを月着陸船の経験があるという理由でアポロ9号に変更し、正搭乗員と予備搭乗員の両方をアポロ9号からアポロ8号に移動させた。その結果、予備搭乗員であるニール・アームストロング、バズ・オルドリン、マイケル・コリンズの3人がアポロ11号の正搭乗員となった:200–203, 223–224, 250:58–62, 136–137。 スレイトンは、残りの月面着陸ミッションでも搭乗員の割り当てを行った。アポロ13号では、予備搭乗員に風疹の可能性があり、風疹の免疫を持っていないケン・マッティングリーに感染してミッション中に発症する可能性があったため、スレイトンはマッティングリーの代わりに予備搭乗員のジャック・スワイガートを起用した:288。1969年、スレイトンはアラン・シェパードをアポロ13号の船長に任命するという決定を下した。この決定は、シェパードが以前に宇宙飛行士室長を務めていたことから、一部の宇宙飛行士から利益相反とみなされ、物議を醸した。最終的に、有人宇宙飛行局のジョージ・ミューラー局長が、シェパードをアポロ14号の船長に再任命した。これは、シェパードが長らく宇宙飛行士の任務から離れていたため、追加の訓練の期間が必要と判断されたためである:346–348。アポロ15号の搭乗員が、その記念切手をめぐって非公式に金銭的な取引をしていたこと(Apollo 15 postal covers incident)が明るみに出て、スレイトンはアポロ15号の搭乗員3人を宇宙飛行を行わない部門に再配置し、彼らの宇宙飛行士としてのキャリアを事実上終了させた:496–497。アポロ17号のミッションでは、スレイトンはジョー・エングルを月着陸船操縦士として残すことを支持していたが、NASA上層部からの圧力により、科学者・宇宙飛行士であるハリソン・シュミットに交代させられた:271:450–451。
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