MO作戦まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 02:18 UTC 版)
1941年(昭和16年)9月、太平洋戦争開戦前におこなわれた連合艦隊の図上演習において、中部太平洋のカロリン諸島トラック泊地を根拠地とする日本海軍の第四艦隊(司令長官井上成美中将)は、「ラバウル攻略後はラエやサラモアなどニューギニア島東部へ進出すべし」と主張した。10月の図上演習でも第四艦隊は「ラバウル確保のため、さらに前方の要地を攻略すべし」と主張した。連合艦隊(司令長官山本五十六大将、参謀長宇垣纏少将など)はラバウル進出後の戦略や同方面[軍事作戦|作戦]]について具体的に研究していなかった。軍令部はオーストラリア委任統治領パプアニューギニアの要港ポートモレスビーやツラギ島を第一線とすべきと考えていたが、やはり具体的な研究はしていなかった。 英連邦オーストラリアは、海外に精鋭を派遣していたため、本土防衛力に不安があったが、戦略的に見て同国は南西連合軍の後方基地であり、日本軍がジャワ島まで到達した場合、重要拠点となり、緒戦で艦隊主力を失った米軍も残された対日反攻拠点として重視していたので戦略的価値が高まり、米国と協同して領土防衛、米豪連絡路の確保に努めた。また日本軍の大本営海軍部も、オーストラリアの戦略的価値急増にともない、戦争終結促進のためオーストラリアを英連邦から脱落させることを模索しはじめた。そのためオーストラリア北部と北東部の要地を攻略し、米豪連絡路の遮断・同方面の敵海上兵力撃滅を検討した。大本営陸軍部は「オーストラリア全土の占領は不可能である」と判断して海軍案に反対したが、南方要域防衛の観点から、オーストラリア北部を押さえる必要性は認めていた。種々折衝の末、陸軍も海軍側の米豪連絡路の要地攻略案に賛成。ここに、日本陸軍もポートモレスビー攻略に加わることになった。 1942年(昭和17年)1月23日、第四艦隊を基幹とする南洋部隊(指揮官井上成美第四艦隊司令長官)は、ニューブリテン島のラバウルとニューアイルランド島のカビエンを占領した(ラバウル空襲)。南洋部隊はラバウルの航空基地化を促進した。ラバウル占領後、南洋部隊はニューブリテン島各地を占領して航空基地を設営し、またニューギニア島東部の連合軍飛行場に空襲を行った。
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