N-[2-(ジメチルアミノ)エチル]-4-フェニルブチルアミド
GC73
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/01 03:46 UTC 版)
1973年3月 富士GC・第1戦(富士300キロスピードレース)シグマオートモーティブから生沢徹が参戦。エンジンはブライアン・ハートチューンのコスワースBDA(以下ハートBDA)。デビューレースの予選でポールポジションを獲得する快挙を成し遂げるが、決勝は24周でリタイヤ。 6月 富士GC・第2戦(富士グラン300キロスピードレース)シグマオートモーティブから生沢徹が参戦。エンジンはハートBDA。このレースは2ヒート制で開催され、第1ヒート26位/第2ヒート20位で総合25位。 9月 富士GC・第3戦(富士インター200マイルレース)このレースから、生沢徹以外に漆原レーシングから漆原徳光が(エンジンは三菱・R39B)、マツダオート東京から寺田陽次郎が参戦(エンジンはマツダ・12A)。漆原レーシングとマツダオート東京にシグマオートモーティブはマシンを売却。しかしながら、公開練習時にバンクでサスペンショントラブルが発生し、安全性確保のためGC73は全車参戦を中止する。漆原は、マシンをシグマオートモーティブに返却する。 10月 富士GC・第4戦(富士マスターズ250キロスピードレース)サスペンション改修を実施したマシンでシグマオートモーティブから高橋晴邦が(エンジンはハートBDA)、マツダオート東京から岡本安弘が参戦(エンジンはマツダ・12A)。なお前記の通り、MC73で生沢も参戦。決勝は、高橋8位/岡本9位。参加した3台とも完走を果たす。 11月 富士GC・第5戦(富士ビクトリ200キロスピードレース)シグマオートモーティブから高橋晴邦が(エンジンはハートBDA)、マツダオート東京から寺田陽次郎が参戦(エンジンはマツダ・12A)。決勝は、高橋9位/寺田リタイヤ。寺田は、ロータリーエンジン搭載マシンで初めて予選で1分50秒を切るタイムを記録して予選7位を確保。 1974年第1次オイルショックの影響を受け、富士GCの開幕戦が3月から5月に順延。また6月の第2戦の富士グラン300キロは、2ヒート制で開催されたが、第2ヒートの事故のため第1ヒートの結果が最終結果となった。マツダオート東京からは、岡本安弘と寺田陽次郎が交代で富士GCに参戦、岡本安弘がシリーズランキング9位を獲得した。エンジンは全車マツダ・12Aを使用した。 3月 富士GC・第1戦(富士300キロスピードレース)マツダオート東京から岡本安弘が参戦。決勝11位。 6月 富士GC・第2戦(富士グラン300キロスピードレース)マツダオート東京から寺田陽次郎が、沢田レーシングから沢田稔が参戦。第1ヒートの結果は、寺田:16位/沢田:リタイヤ。第2ヒートは、スタート直後の接触事故で風戸裕・鈴木誠一のマシンがクラッシュし炎上したため中止(2人とも死亡)。(この第2ヒートがGC第3戦としてポイント対象であったが中止)この事故の影響を受けて、以後富士ではバンクを使用しない右回りのショートコース・4.3kmでレースが開催される。 8月 富士500マイルレースマツダオート東京から寺田陽次郎・岡本安弘組が、沢田レーシングから沢田稔・杉山組が参戦。寺田・岡本組は優勝/沢田・杉山組は4位。GC73の初優勝。 9月 富士GC・第4戦(富士インター200マイルレース)マツダオート東京から岡本安弘が、沢田レーシングから沢田稔が参戦。第1ヒートの結果は、岡本:2位/沢田:リタイヤ。岡本の2位は富士GCにおけるシグマ製マシンの最高成績。 10月 富士GC・第5戦(富士マスターズ250キロスピードレース)マツダオート東京から寺田陽次郎が、沢田レーシングから沢田稔が参戦。決勝は、寺田:9位/沢田:リタイヤ。 11月 富士GC・第6戦(富士ビクトリ200キロスピードレース)マツダオート東京から岡本安弘が参戦。決勝9位。 1975年富士GC・全5戦の中で2ヒート制が2回(第1戦、第3戦)、3ヒート制が1回(第4戦)に実施された。マツダオート東京からは、昨年同様寺田陽次郎と岡本安弘が交互にGC73で参戦。(ゼッケンNo.77)場合によっては、1974年にル・マンに参戦したシグマ・MC74で両名とも参加するケースがあった。(MC74はゼッケンNo.78)フロントカウルをムーンクラフトにてドラッグの少ない形状に変更。エンジンは前年に引き続き、全車マツダ・12Aを使用。 3月 富士GC・第1戦(富士300キロスピードレース)マツダオート東京から寺田陽次郎が参戦。第1ヒート12位/第2ヒート9位。 6月 富士GC・第2戦(富士グラン250キロスピードレース)マツダオート東京から岡本安弘と河野譲が参戦。決勝は、岡本・河野ともリタイヤ。 9月 富士GC・第4戦(富士インター200マイルレース):2ヒート制マツダオート東京から寺田が参戦。第1/第2ヒートともリタイヤ。 10月 富士GC・第5戦(富士マスターズ250キロスピードレース):3ヒート制マツダオート東京から岡本が参戦。決勝は、第1ヒート12位/第2ヒート9位/第3ヒート13位。 11月GCレース第6戦(富士ビクトリ200キロスピードレース)マツダオート東京から寺田が参戦。決勝5位。 1976年ロータリーエンジンの参戦基準が富士GC第1戦から緩和された。従来の「換算係数2倍で換算排気量2,500cc以下」から「換算係数2倍で換算排気量3,000cc以下」となり、実質的には換算係数1.5倍の特例措置が採られた。このことによって、13B(換算係数2倍で2,616cc/換算係数1.5倍で1,962cc)でのGC参戦が可能となった。マツダオート東京は、この年ペリフェラル吸気ポートの13Bエンジンで参戦した。 3月 富士GC・第1戦(富士300キロスピードレース)マツダオート東京から岡本安弘が参戦。決勝リタイヤ。 6月 富士GC・第2戦(富士グラン250キロスピードレース)マツダオート東京から寺田陽次郎が参戦。決勝リタイヤ。 9月 富士GC・第3戦(富士インター200マイルレース)マツダオート東京から岡本が参戦。決勝4位。 10月 富士GC・第4戦(富士マスターズ250キロスピードレース)マツダオート東京から寺田が参戦。決勝11位。 11月 富士GC・第5戦(富士ビクトリ200キロスピードレース)マツダオート東京から岡本が参戦。決勝9位。 1977年GC73での参戦のラストシーズン。マシンは、リアウイングのウイングガイドの形状変更を実施。この年から寺田陽次郎のみがGCに参戦するようになった。エンジンは引き続きマツダ・13Bを使用。 3月 富士GC・第1戦(富士300キロスピードレース)マツダオート東京から寺田陽次郎が参戦。決勝リタイヤ。 6月 富士GC・第2戦(富士グラン250キロスピードレース)マツダオート東京から寺田が参戦。決勝7位。 7月 富士LD・第2戦(富士250キロレース)マツダオート東京から寺田/荻原組が参戦。決勝リタイヤ。 9月 富士GC・第3戦(富士インター200マイルレース)マツダオート東京から寺田が参戦。決勝リタイヤ。 10月 富士GC・第4戦(富士マスターズ250キロスピードレース)マツダオート東京から寺田が参戦。決勝リタイヤ。 12月 富士LD・第2戦(全日本富士500マイルレース)マツダオート東京から寺田/荻原組が参戦。決勝6位。
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